●教育の背景
(清水一郎、塾経営、「共育つうしん」52号、2000年6月掲載)

 教育基本法によれば、教育の目的は人格の完成にあります。言葉の上ではもっともなこととは思うのですが、それでは50を過ぎたおのれの人格が、果たして完成しているかとなるとはなはだ心もとない思いがあります。しかし教育基本法は、宗教上の精神界や形而上学的な思索の世界に関わる規律ではなく、市井に生きるわれわれ凡人が日常かかわっている、子育てという世俗のことがらについての実定法だということを思い直したとき、教育の目的としての人格の完成を、手の届かない深遠なものであるとは考えない方がよさそうです。

 家庭でわが子を育てる親にしても、学校で児童生徒の指導を担当する教職員にしても、スーパーマンではありません。親鸞のことばを借りれば「煩悩具足のわれわれ」ということになります。悩み多き凡人がわが子やわが生徒を育てているという現実を直視することは必要です。そうとすれば、人格の完成ということは、健全な社会人の育成と言い換えてもよいでしょう。

 それでも私たちが、この格調高い教育基本法の理想と、その背景をなす日本国憲法の個人の尊厳の重視とを、日々の教育・子育てのなかで実践することには、かなりの努力と勇気を要します。世間のしがらみにとらわれてそこから抜けられない意識と、自分の心の奥にしまい込んでいる本音との葛藤に、私たちはともすれば安易な道を選んでしまいがちです。日本国憲法や教育基本法を貫く個人の尊厳を尊重する思想は、個人が自立した社会を前提としているように思います。大人の間で未だ個人の自立が確立されていない日本で、健全な社会人を育成するための営みを試みるのは、絶望的な思いすらあります。

 日本が近代化されて百数十年の時間が過ぎました。敗戦により再度近代化され五十数年が経っています。この間に公的な社会の建前は、すべて先進国(欧米)の規範で動くようになっています。ところがいまでも、個々人が属する世間(ムラ)の掟による心理的圧迫があります。個人の自立を建前とする国法秩序と、自立を許さないムラの掟が併存するのが日本社会です。私たちは、このダブルスタンダード(二重の基準)の中で苦しんでいます。職場という世間、隣近所という世間、家族親類縁者という世間など、それぞれのムラの掟と、自分の心の中の本音や法秩序などとの板挟みに悩みます。日本社会のこの二重構造は、世代を越え子どもたちの間にも存在していると思えてなりません。

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