●理想を語ろう
(師村 達、WEF会員、桐生市、「共育つうしん」69号、2003年4月掲載)

 「学校の常識は世間の非常識」という言葉を聞いたことがあります。学校の先生は、世間知らずで非常識だということでしょう。では、なぜそのように言われるのか。非常識ではいけないのか。学校と先生について考えてみます。

 「でもしか先生」は古い話です。今や先生になるには、受験勉強を勝ち抜くまじめな「優等生」でなければなりません。したがって、落ちこぼれたような挫折経験や社会体験は、確かに少ないでしょう。しかし、「優等生」のすべてが教員になるわけではありません。「優等生」は、さまざまな職業につき常識を身につけていきます。だから問題は、世間から隔絶された閉鎖的な学校の環境にあるのではないでしょうか。裁判官がさらに世間知らずというのは、もっと特殊な社会のなかで生きているということでしょう。

 学校の情報公開が必要であることは、論をまたないところです。同時に、教職員が、社会の変化や学校教育への要請などに敏感であり、地域の中の学校という観点を失わないことが大事です。教職員自身が地域の中で日々成長し、そして地域の子どもたちをまるごと育てるのだという意識を持つならば、学校は閉鎖的であるとか、先生は世間知らずで非常識、というような批判はおそらくなくなるでしょう。

 ところで、子どもの教育においては、また別の観点が必要ではないでしょうか。常識は、時代や社会の変化の中で変わっていくものであり、昨日の非常識が今日の常識になることもあります。そして、子どもたちは、明日の世界に生きる存在です。つまり、おとなが、これは常識だからと子どもたちに押しつけてはいけないということです。子どもたちの発想をできるだけそのまま受けとめることが大事だと思います。

 おとなは、説明がめんどうになるとすぐに、「こんなことは常識なんだから」と子どもに押しつけます。しかし、子どもは、まだ常識が形成されていないことを前提として、その都度説明することが必要なのです。さらに、子どもたちに常識を教えることよりもっと大事なことがあります。

 常識というのは、おとなの意識の集約であり、往々にして社会や集団を維持するための保守的な考えが反映します。「長い物には巻かれよ」のような現状肯定の処世であったり、「世の中はこんなもの」というあきらめの考えを含んでいたりします。それは現実の社会の中で生きるためには、時として役立つことかもしれませんが、学校で教える必要はありません。社会に巣立てば否応なしに身につけるでしょう。

 人間は、環境(自分のまわりにあるすべてのもの)を科学的に分析し、論理的に判断して、より人間らしく生きられるように変革しながら生きるものです。そのとき、物事の本来あるべき姿を知らずして、どうして変革の道筋や目標を描くことができるでしょうか。子どもたちに必要なのは、常識ではなく物事の本来あるべき姿についての認識なのです。子どもたちにとって学校は、世間と区別されるべきものだと思います。

 いじめのことを訴えたら、学校の先生に言われました。「社会に出たら、どこにでもいじめはあるのだから……」だから、学校でいじめがあっても仕方がないと子どもたちに耐えさせるのでしょうか。あきらめさせるのでしょうか。本来、どんな社会にもいじめがあってはならないわけです。なぜ、「本来あるべき姿」(理想)を語ってくれないのでしょうか。

 理想は、空想ではありません。科学的な根拠を持っています。しかし、それはいつまでたっても手に入れられないものかもしれません。それでも、その理想に向かって謙虚に変革の努力をすることがいかに重要かを先生には語ってほしいのです。いつでも希望を語ってほしいのです。「非常識」でも理想を語る先生を子どもたちは必要としています。

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