●サッカーと神様
(B・W・スノーマン、館林市、「共育つうしん」64号、2002年6月掲載)
 
 京都・上京区に蹴毬で有名な白峰神宮がある。サッカーの神様(正確には“球技上達”)に、日本代表の必勝祈願という話題が、サッカー・ワールドカップ・フランス大会の当時ありましたが、今回は一度も耳にしません。

 白峰神宮の祭神である崇徳上皇(蹴毬が得意だったらしい)は、明治以前の日本人に最も恐れられていた怨霊の一人です。
 1156年(保元元年)7月、鳥羽上皇(父)の死をきっかけに、崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟・鳥羽側)は戦いの火ぶたを切りました。世にいう保元の乱です。

 戦いの決着は早く、天皇方が勝利し、崇徳は、讃岐(香川県)に配流、藤原頼長は戦傷死、源為義は息子義朝により斬罪に処せられました。実に349年ぶりに死刑執行が復活したわけです。保元の乱はいろいろな意味で日本史の転換点であったわけですが、とりあえずよこに置いておきます。

 幽閉された崇徳は、反省と戦死者の供養の意を込め、3年を費やして五部大乗経を写経しました。すべてを完成させると、その経を関白・藤原忠通(頼長の兄)に送りました。ところが、後白河側は、呪そが込められているのではと、これを送り返しました。

 骨肉の争いを演じた崇徳上皇と後白河天皇は、ともに鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の子供ということになっていますが、鳥羽上皇をはじめ多くが、そう信じていませんでした。

 「古事談」によると、鳥羽上皇の祖父・白河法皇は璋子を養女とした後、法皇の命により鳥羽の中宮として入内したのですが、その間、法皇と密通しました。つまり、崇徳は鳥羽の叔父ということになります。鳥羽は崇徳を「おじご」と呼び憎んだといいます。一説によると崇徳は事実をまるで知らなかったそうです。

 絶望と怒りで崇徳は、舌先を噛み切り、流れる血で経文のすべての巻に呪いの言葉を書き付けました。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」「この経を魔道に廻向す」経文から得られる力をすべて悪業に使うと宣言したわけです。

 崇徳は配流8年にして讃岐で憤死します。髪も爪も切らず、凄まじい形相だったそうです。
 1159年、後白河側の抗争により、源氏が敗北(平治の乱)、平清盛が実権を握ります。その平氏も、1185年、壇の浦で滅亡します。その後の歴史は説明するまでもなく、皇室・朝廷は、政治の表舞台からほぼ退場することになります。

 時代はぐっと下って、孝明天皇が崩御してから明治天皇は勅使を讃岐の崇徳上皇の白峰御陵に派遣し、上皇の霊を白峰神宮に移し、ご機嫌をうかがっています。
 ちなみに、昭和39年9月、白峰御陵での没後800年祭の当日、落雷と集中豪雨が、上皇ゆかりの地を襲い、地元では、崇徳上皇のたたりと騒がれたそうです。

 そんな恐い人に、日本代表チームの応援をしてくれなんて……。フランス大会の3連敗はタタリだったのでしょうか?

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