●私の受けた教育 「真実を問い続けて」
(浅野良雄、WEF会員、「共育つうしん」42号、1998年10月掲載)
大学での恩師、畔上道雄先生は、常識的な見方からは、先生という概念を超えたタイプの人であった。しかし、私にとって、先生として最も尊敬に値する言動をした人であった。
先生は、学問を、完成された形として私たちに教えたことは全くと言ってよいほどなかった。むしろ、学問の本質は「疑問を持つこと」と「否定すること」にあると言うのが先生の口ぐせだった。理屈ではそのように考えている人は決して少なくないが、その信念を日々に実践し、また私たちに教え続けてくれた数少ない先生の1人であったと思う。
先生から受けたのは「電気磁気学」の講義だったが、学生が自ら本で学ぶことができる内容についてはほとんど話さなかった。また成績の評価は試験でなくレポート、それも自分でテーマを決める自問自答形式によるものであった。しかもその採点基準が「いかに自分自身の頭で考えたか」に重点が置かれていたため、いわゆる教料書丸暗記の優等生的解答では通用しないという、きわめて高いレベルが要求された。しかし反面、「知識」より「思考」を重視するあまり、思わぬ弊害が出たりして、必ずしも最良の方法ではないと先生自ら話していた。畔上先生は放任主義者だった、と言うより学生の自主性を尊重する人だった。
自由主義の畔研(先生の元で卒業研究をする研究室)というレッテルは、卒論の研究室を決める学生から、良かれ悪しかれ一目置かれていた。そのため、私を含めて畔研を選んだ学生は、研究の内容より、むしろ先生の人柄や学問に対する姿勢に惹かれて入った人が多いようである。何か特定のテーマで研究したい人や、卒業後の進路を念頭に置く人は、むしろ畔研を敬遠していた風調があった。そうした理由からかどうか、はっきりわからないが、畔研の希望者が少ない年が何年か続いたようである。しかし後年は人気のある研究室の1つになったというから、時代の移り変わるものだとつくづく思う。
それでは、私は先生から何を教えていただいたかと言うと、それは真理を探求する方法と喜びである。私の年度のゼミのテーマは科学論だったが、先生らしく討論の内容はむしろ周辺領域におよぶことが多く、政治、哲学、宗教、文学、芸術、人生論と議論は果しなく続いた。
先生は、自分自身の生き方には確固とした信念があったようだが、学問上の異説や他の人の信条には意外なほど寛容だった。不真面目な学生には遠慮なく忠告したが、堂々と反論する学生はむしろ歓迎し、親身になって議論してくれた。先生の学問のテーマは、単なる電気工学や科学ではなく、社会を改革して行くための方法論であった。先生の思想の基盤はマルクス主義唯物論にあったが、それを絶対的なものとして崇拝するようなことは決してなく、まして人に押し付けたりはせず、いつも自分自身にも疑問を投げかけながら説いていた。
私も、社会に出てから、世の中のことが少しずつわかってきて、慣習や制度に対する疑問が湧きはじめた。そして、先生が探求していたものが何であったかが少しずつわかってきた。
先生の最終講義を後日録音で聞いた。前置きや余談(これが先生の講義の真髄なのだが)が長くなりすぎて、最後は、論文を発表した科学雑誌の宣伝をしているうちに、結論に達しないまま時間切れになってしまった。聴衆の拍手と笑い声がごっちゃになってしまった。後日、先生は、その終わり方を、たいへん悔やんでいたと言うことである。
「住み良い社会とはどういうものか」、先生はこの大きなテーマに対して、とうとう結論を出さないまま昭和58年に亡くなった。学問や社会に対してだけでなく、自分自身に向っても、絶えず問うことを止めず、未来へ向って走り続けていた先生は、この永遠のテーマを、まるでリレーのバトンのように、いともさりげなく私たちに託して去ってしまった。著書「人間内村鑑三の探求」の最後で、先生はこう書いている。『ここに1人の人間(畔上先生)が、畔上(先生の父であり、鑑三と共にキリスト教の道を歩みながらも、絶えず信仰の本質について疑問を持ち続けていた)の悩みをうけつぎ、そのゴールへ向ってすすむ……』(括弧内筆者)
先生には著書が多かった。それも、専門の電子工学だけでなく、生体情報工学から文芸批評、推理小説の評論などと多岐にわたっていた。私も、もともと文章を書くのが好きだったが、そんな先生に接しながら、「ものを書く姿勢(身体の姿勢ではない)」も同時に学ばせてもらった。
独立したページですので、元に戻るにはこのページを閉じてください。
このページから入られた方は、
トップ(Home)
または
目次のページ
へどうぞ。