連載中! 「桐生周辺の地名」
(清水一郎、WEF会員、「共育つうしん」53号〜、2000年8月〜掲載中)
No.00 No.00
No.01 渡良瀬川

 WEFホームページに、師村達さんがお書きになった「寄り道―桐生のご案内」というページがあります。その「桐生案内」について師村さんと話していたときに、どの辺までを「わたらせ地域」と言うのか、という質問を受けました。師村さんは京都生まれの京都育ちで、20年前に新任の高校教師として桐生へ赴任されました。
 
 桐生生まれの私には、「わたらせ」と聞くと「渡良瀬川」が思い浮かぶだけで、地域名の意識はまったくありませんでした。しかし最近は、この「わたらせ教育フォーラム」を含め、「わたらせ〇〇」という組織が増えていますし、上毛新聞わたらせ支局もでき、「渡良瀬」でない「わたらせ」が地名として使われる現象が進行していると理解していいかもしれません。

 ところで河川としての渡良瀬川の名称ですが、どこか特定の地名に由来するものではないのかもしれません。その昔、この大河の上流や中流のそこかしこに、人が歩いて渡れる浅瀬があったことから、渡良瀬川の名称が生まれたのでしょうか。

 栃木県足尾町に渡良瀬という集落があります。もちろん渡良瀬川に面しています。だから渡良瀬川と呼ばれるようになったのだと短絡することはできないように思われます。足尾町の最盛期は明治後半から昭和初期のころで、桐生織物の最盛期と重なるようです。今では人口わずか3800人ほどの足尾町も、一時はあの狭い谷間に5万人以上の人口があったそうです。人の住むところができれば地名が付くのも道理で、あるいは渡良瀬集落も「渡良瀬団地」のような感覚で付けられたのだろうかと想像したりするのですが、よくわかりません。いずれ調べてみたいと思います。

 1889年(明治22年)の町村制施行のときに、邑楽郡渡瀬村というのが、封建時代以来の6か村を集めてできました。1954年(昭和29年)に館林市が誕生するとともに渡瀬村は消滅しました。この辺りは渡良瀬川も下流で、渡し船でなければ対岸に渡れないような蕩々とした流れですから、渡良瀬川発祥の地にはふさわしくないように思われます。
 
No.02 上毛と両毛                         ▲戻る

 「しのぶ毛の国ふたご塚」。群馬県内で育った方なら誰でも知っている「上毛かるた」の読み札の一つです。毛の国は、毛野国(けぬのくに)とも言われました。古代中国の歴史書「宋書」に倭王武(ワカタケル大王)が皇帝に提出した上表文に「東は毛人を征すること五十五国」というくだりがあります。5世紀のことです。
 
 毛人は、蝦夷(えみし・大和政権に服属しない東北地方の人々)だとする見解がありますが、倭王武の祖先たちに征服される前の東国の人々を毛人と言っていたとするほうが自然ではないでしょうか。毛人の国々には当然毛野国が含まれていただけでなく、毛人という言葉自体が大和政権に征服される前は毛の国が東国の中心勢力だったことを象徴しているのだろうと考えます。

 その毛野国は、上毛野国(かみつけぬのくに)と下毛野国(しもつけぬのくに)に分割されます。東山道沿いに都に近い方が「上」で遠い方が「下」です。ちなみに越前・越後などの「前後」も同様です。栃木県を流れる鬼怒川の語源は「けぬがわ」だと思います。
 
 ところで大和政権に征服された東国の庶民は哀れでした。東北地方の蝦夷征討のため、軍役に就かなければならなかったからです。その子孫たちはさらに遠く防人(さきもり)として、北九州や壱岐・対馬に赴かなければなりませんでした。白村江の海戦で唐と新羅の連合軍に敗れ全滅した倭軍の中には、何万人もの東国の兵士たちがいたはずです。

 奈良時代になると国名は漢字2字で表記するように統一されます。上毛野国と下毛野国はそれぞれ「上野国」と「下野国」に名称が変わります。この時公式に「毛の国」がなくなります。読みは「かみつけ・しもつけ」だったのかと想像しますが、平安時代には京都風の音便で「こうずけ」と発音されるようになり後世にいたります。江戸時代になってからの略称はおなじみの「上州・野州」です。
 
 「上毛」の呼称は群馬県を指しますが、使われるようになったのは明治以降でしょうか。王政復古の気分の影響があるのかもしれません。栃木県のことは「下毛」とは言いません。しかし上毛があるから群馬・栃木両県を両毛と言うようになったのでしょう。根拠となる資料はありませんが、両毛鉄道(現JR両毛線)の敷設がこの呼称の普及に寄与したといえるのではないでしょうか。今では両毛地区は漠然とした両毛線沿線ではなく、桐生市・太田市・館林市・山田郡・新田郡・邑楽郡(群馬県)と足利市・佐野市・安蘇郡(栃木県)を指すれっきとした地名になりました。
 
No.03 桐生と山田郡                        ▲戻る
 
 現在の山田郡には大間々町だけしか残っていませんが、45歳以上の方なら毛里田村や矢場川村も山田郡に属していたのを知っているはずです。さらに50代後半の方は相生村・川内村・梅田村が桐生市に、休泊村が太田市にそれぞれ編入される前には、それらが山田郡の村々だったことも覚えていることと思います。古代から大正までの山田郡は、北は大間々付近から南は現在の太田市の東半分までの渡良瀬川・矢場川沿いの広い区域がありました。今の太田市竜舞や八重笠がその南端です。

 郡という区画は、大宝律令の国郡里制以来1300年もの長い間使われてきた区域を表す単位ですが、公権力行使のための単位(行政区画)としては、意外に短い期間しか使われていないことに驚きます。古代にはそれでも地域によっては2〜300年間は機能したでしょうか。平安時代に国郡郷里制が荘園や保(ほう)などという徴税単位に取って代わられ、律令制度の国司の下で郡の権力を担当していた郡司(ぐんじ)たちが没落したり、荘園や保などの在地管理者として自立したりして、郡は行政単位としては機能しなくなります。
 
 その後の長い武家支配の時代にも「上野国山田郡」は単に地域を表す機能しか果たしませんでした。桐生氏や由良氏といった戦国の武将や大名の領地支配に郡が特別の機能を持っていたとは考えられません。幕藩体制下の江戸時代には、今の字(あざ)や大字(おおあざ)に当たる当時の村や郷が領地支配の単位でした。ここでも郡は村名の前に付けた単なる広域名でしかありません。

 行政単位としての郡の復活は1878年(明治11)でした。郡区町村編成法施行により山田郡役所が桐生新町に設置され、江戸時代以来の桐生新町はじめ各村々は山田郡の管轄下に置かれました。桐生新町というのは本町一丁目〜六丁目と横町(現在の横山町)の7つの町から成る自治体のことです。この年に編纂された「上野国山田郡村誌」によると桐生新町の人口は4,381人でした。この年に今泉村(東・仲町・浜松町)堤村・村松村(宮本町・小曽根町など)本宿村(元宿町・巴町など)の4村が合併して安楽土村が誕生しました。1889年(明治22)市町村制施行により桐生新町は安楽土村・下久方村(東久方・西久方・天神町)新宿村(錦町・南地区など)を編入して桐生町になりました。

 さらに1921年(大正10)には市制が施行され、桐生町は山田郡から独立して桐生市になりました。その後まもなく1923年(大正12)に郡制が廃止され、1926年(大正15)には郡役所・郡長もなくなり山田郡は単なる地域名に戻り現在に至ります。

No.04 桐生の範囲                         ▲戻る

 桐生の範囲はどこかと尋ねられたらどう答えますか。行政区画にしたがって「桐生とは桐生市のこと」とすれば単純明快です。それなら桐生広域圏に含まれる新田郡薮塚本町・笠懸町や勢多郡新里村・黒保根村・東村や山田郡大間々町は「桐生市」ではないが、桐生地区なのだから「桐生」に含まれるといったら誤りでしょうか。

 前回、桐生新町(1丁目〜6丁目と横町)が明治の市町村制施行により周囲の3村(安楽土・下久方・新宿)を編入して桐生町になったことを紹介しました。その後1933年(昭和8)に境野村、1937年(昭和12)に広沢村が桐生市に編入されています。さらに1954年(昭和29)の昭和の大合併の際には、梅田村・相生村・川内村の一部を編入して現在の桐生市の骨格ができました。このとき私は編入する側の「旧市内」に住んでいましたが、小学1年生だったので定かな記憶はありません。
 
 しかし、小学高学年や中学生の頃には、現在では死語になってしまった「旧市内」「新市内」という言葉がしきりに使われていたのを覚えています。その後も桐生の新市域は1955年(昭和30)毛里田村の一部、1959年(昭和34)栃木県菱村、1968年(昭和43)栃木県田沼町の一部と広がっていきます。現在私は桐生市菱町に住んでいますが、菱地区の古老は今でも桐生川の西側の市街地のことを「桐生」と読んでいます。

 こう見てくると、江戸時代の桐生新町を核に、行政区画としての桐生が次第に広がってきたことが分かります。今では相生や川内・梅田・菱が桐生だということに異論を唱える人はいません。しかし桐生広域圏を桐生というかどうかについては、桐生市外の広域圏の住民の感情的反発だけでなく、桐生市の住民でも躊躇するものがあるかも知れません。

 ところが江戸時代の古文書には、「桐生領54ヶ村」という言葉がよく出てきます。これは山田郡桐生新町ほか34村・勢多郡18村・野州梁田郡2村からなり、現桐生市と大間々町・黒保根村・東村全域にあたります。「桐生市菱の郷土史」の記述によれば、桐生領54ヶ村は戦国時代の豪族桐生氏の支配領域に由来するようです。それが桐生氏支配の時代から遠く離れた江戸時代を通じて、幕府への出訴嘆願などことある毎に領民が自ら桐生領54ヶ村と呼んだのは、この地域が一つの生活圏として機能していたからに違いありません。桐生領54ヶ村は、まさに「桐生」だったといっていいでしょう。

 現在の桐生広域圏は桐生領54ヶ村よりも広く、薮塚本町・笠懸町・新里村の区域がこれに加わります。薮塚本町は太田市とも密接な関係があるので微妙ですが、私は「桐生」という地域名は桐生市の独占物ではなく、古い歴史を持つこの生活圏の共有物と考えるべきだと思っています。
 
No.05 国境の地・境野町                      ▲戻る

 両国橋というとJR総武線・浅草橋、両国間の隅田川鉄橋の下流に見える、日本橋と深川を結ぶ橋を連想する人が多いと思います。両国の地名は国技館で有名です。その名は昔の武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)の国境に由来します。武蔵国は東京都、下総の国は千葉県で現代の印象からすれば江戸川が総武両国の国境ですが、かつて隅田川は利根川の本流で、ここが総武両国の国境線でした。

 桐生にも両国橋があります。桐生市の最高峰根本山を源流とする清流桐生川は、48キロを南流して栃木県足利市小俣町で渡良瀬川に合流します。20年ほど前まではこの川で友禅流しなども見られました。合流地点から遡って3つ目の道路橋がわが両国橋です。両国橋は桐生市の市道として架けられた小規模な橋で、右岸は境野町、左岸は菱町とどちらも群馬県桐生市に属しています。

 境野町(1丁目〜7丁目)は渡良瀬川と桐生川に挟まれた低地で、今は全域市街地になっています。渡良瀬川の対岸に「広沢町間の島」がありますが、ここもかつては上野国山田郡境野村に属していました。1624年(江戸時代の初め)の洪水で渡良瀬川の流路が変わり島になったそうです。いっぽう現在の境野町に下小友(したおとも)という小字(こあざ)名が残っています。ハートピアや沼の上保育園の近くです。このすぐ北の桐生川の対岸は菱町1丁目で、ここの小字名には上小友(かみおとも)・中小友(なかおとも)があります。現在の菱町1丁目全域は、江戸時代には下野国梁田郡小友村といっていました。
 
 古文書による証拠はありませんが、ある時期桐生川は境野町下小友の南側を流れていて、下小友を含む境野町のかなりの部分が小友村すなわち下野国だったのではないかと私は想像します。今では桐生川は菱町側の丘陵にへばり付くように東流していますが、戦国時代(16世紀)の記録に「境野原」という記載がありますから、そのころはこの低地の中ほどに桐生川が流れて上野国と下野国の国境になっていたのではないでしょうか。

 かつて利根川や渡良瀬川などの大河川は渡河するのが困難でしたから、国境や郡境として人々の生活圏の境界線として使われました。同時に治水が十分でなかった時代には、大洪水のたびに河川は流路を変えました。そのような場合国境や郡境が移動するのが普通だった時代がある時期まで続いていたのだろうと私は考えています。
 
No.06 「藪塚本」という町か、それとも「藪塚本町」という町なのか? ▲戻る

 以前知人から、新田郡藪塚本町は「藪塚本」という町か、それとも「藪塚本町」という町なのかと質問を受けたことがありました。明治の町村制施行の際に藪塚村や本町村(時代によっては大原本町村や大原宿と呼ばれた)など6か村が一つになって「藪塚本町」ができました。明治の町村制施行(1889年)というのは、封建時代の村落を近代国家の中央集権的行政区画に変えるための措置でした。いわば廃藩置県の続きだといっていいでしょう。「藪塚本町」の名称は6か村の中心的村落だった「藪塚村」と「本町村」をくっつけて名付けられたものです。

 「本町という村」という表現もまた面白いですね。町と村の違いはどこにあるのでしょうか。便宜上つぎの3つの観点から現代の町と村を考えてみました。(1)地方公共団体としての「町と村」。(2)市町村の中にある地域名としての「町と大字」。(3)都市的・農村的な地域の区別としての「町と村」。(1)と(2)は条例によって定められる公式なものですが、その背景には(3)の判断があることは明らかです。時代は違いますが、「本町という村」という場合の「村」は(1)の基準、「本町」は(3)の基準で区分しています。

 藪塚本町は「藪塚本」という町なのかという疑問は、(1)のみを区分の基準としたときに出てくる問題ということになります。「町」の定義は一つではないことや藪塚本町ができた沿革を検討すると、「藪塚本町」という町なのだと結論づけるのが妥当だと思います。

 全く同じ問題が群馬県多野郡新町でも起こってきます。すなわち「新」という町か、「新町」という町かということです。わが桐生新町も同じです。いっぽう群馬県佐波郡玉村町は、今では完全に「玉村」という「町」になっていますが、その昔「村」だった時のことを考えるとおもしろい問題が提起できるかもしれません。玉村町には「南玉(なんぎょく)」という大字があります。これなどは「玉」という村の名残かもしれません。そうするとかつて「玉」という村だった場所が「玉」という町にならずに「玉村」という町になった。最後は冗談でした。

No.07 東毛など                          ▲戻る

 お隣の栃木県では、県北・県南の呼称が一般化していますが、群馬県では東毛(とうもう)・西毛(せいもう)・北毛(ほくもう)が一般に使用されています。ときには中毛(ちゅうもう)も使われることがあります。いずれも群馬県東部・西部・北部・中部という意味あいです。群馬県の地図を思い浮かべていただけばお分かりのように、県の南東部と南西部はありますが、南部というのはありません。県境の利根川を越えた埼玉県北部がその位置に当たりますが、いくら厚かましい群馬県人でも熊谷・深谷・本庄などを南毛と言ったりはしません。もともとそこは武蔵の国なのですから。

 厚かましい群馬県人といったのは、栃木県との関係においてのことです。上古、群馬・栃木両県の区域は毛野国(けぬのくに)と呼ばれていました。それが上下2国に分かれて上毛野国(かみつけぬのくに)・下毛野国(しもつけぬのくに)に、さらに上野(こうずけ)・下野(しもつけ)と呼ばれるようになったことは、この連載第2回で述べました。名称の由来からすれば栃木県だって「毛」の字を使う権利があるはずなのに、東毛・北毛などの呼称を群馬県人が勝手に使うのを黙っていてくれます。厚かましい群馬県人と控えめな栃木県人は県民性の違いかもしれません。

 ところで狭義の東毛は、桐生市・太田市・館林市・山田郡・新田郡・邑楽郡と勢多郡東部3村の区域になります。東毛広域圏(太田市・館林市・新田郡南部・邑楽郡)という行政の単位があり、これが最狭義の東毛だと言えなくはないのですが、桐生などを東毛から除くということには不自然な感があります。
 
 広義の東毛は利根川を境に前橋市以東の群馬県平野部を指し、これは高崎市以西の西毛と対をなす言い方です。歴史に根ざした両地域の文化的・地理的な違いによる分類と言っていいと思います。最近では前橋・伊勢崎を中心に中毛地区と呼ばれることもあります。これは高校の学区から出てきたのかもしれません。ときには伊勢崎市・佐波郡以東を東毛に含める場合もあります。

No.08 西鹿田                           ▲戻る

 新田郡笠懸町の北西に西鹿田という集落があります。国道50号が混んでいるときなど、ここを通ると時間が短縮できます。「にししかだ」ではなく「さいしかだ」と呼びます。

 私がこの呼び名を知ったのは、1959年(昭和34)小学6年生の時でした。佐波郡東村東小保方の学校から大間々の高津戸渓谷まで、徒歩で往復した遠足の折りでした。桑畑の中を1時間ばかり歩くと、平野の中に小さな山が現れました。その時、級友の一人が「あっ、サイシカダだ」と叫びました。どうやら彼の親戚がここにあるようでした。
 
 地図好きの少年だった私は、それ以前から書店で買ってきた分県地図をよく眺めていたので、この近辺の「鹿」「前鹿田」「西鹿田」などの地名は知っていました。しかし「さいしかだ」という読みは知りませんでした。級友の「サイシカダ」という叫びと、間近に見えた天神山が、今も記憶に残っています。

 ところで「西鹿田」に対する「東鹿田」の地名はありません。「鹿」や「前鹿田」の西方に位置するから「西鹿田」と言えなくもないのですが、ではなぜ「にし」でなく「さい」なのか長い間疑問に思っていました。

 4〜5年前のこと、群馬県東部の地図を見ていてふと、「さい」は「佐位」のことではないかと思い至りました。新田郡と佐波郡の境界線を利根川から北上するとほぼ直線をなしますが、「西鹿田」の部分だけ西の佐波郡の位置に食い込んでいます。佐波郡は1896年(明治29)まで、広瀬川を境に西を那波(なわ)郡、東を佐位(さい)郡と呼ばれていました。「佐位」の「鹿田」だから「さいしかだ」なのではないかと思ったのです。昔は新田郡でなく佐位郡に属していたのかもしれないと考えたのでした。

 群馬の地名(平凡社刊)の「鹿田郷」の項には、15世紀の「新田庄知行分目録」という文書に北鹿田郷(現在の西鹿田)が、西庄(さいしょう=佐位庄=渕名庄)に押領された記載があると書かれています。「西鹿田」は「佐位鹿田」に由来すると考えて誤りはなさそうです。

No.09 地名に当てた漢字の変遷                   ▲戻る

 前回の文章をお読みになった会員から、つぎのようなご質問をいただきました。

 「佐位鹿田が西鹿田に変化したという説明、よくわかりました。なるほどと思いました。地名などは同じ音で漢字が変わるというのがときどきありますが、どうして変化するのでしょうね。 私の近くは、『あらと』といい、確か『安楽土』と書くんですよね。でも昔は違う漢字を書いたようです。」

 ある地名を表記する漢字が変遷する原因の第1に、無意識のうちに書き手が従来の表記とは異なった漢字を書き込んでしまったということが考えられます。もともと地名が日常の生活で使われるときは音が中心で、漢字は意識しないのが古来からの習慣だったのではないでしょうか。領地の異動や耕作権の確認など、文書に地名を記載する特別の必要がある場合に地名を漢字で表記します。そのような文書に地名を記入するときに、都の役人や大寺院の僧侶など知的レベルの高い層は正式の地名や人名などを書くことが多かったのでしょうが、郡司層や荘園の在地管理者などは耳で聞いた音をあまり吟味せずに文字に写すことが一般的だったのかもしれません。書き手の知識水準が漢字の変遷を生じさせたといっていいかもしれません。

 勢多郡宮城村に「三夜沢」という地名があります。「みよさわ」と呼びます。ここは上野国二の宮赤城神社の参道にあたります。私は、むかし「宮沢(みやさわ)」と言われていたのではないかと想像しています。神社の神官とか村役人とか、字の書ける人がある時「みや」の音に「三夜」をあてたのが定着して、読みのほうも字にしたがって「みよさわ」になってしまったのではなかろうかと考えています。

 原因の第2は特定の効果を意図して別の意味を持つ漢字を当てた場合です。安楽土の語源は「荒戸」で、場合によっては「荒土」とも書くようです。400年前に桐生新町ができるまでは、今は桐生市の市街地になっている桐生川がつくった扇状地のことを「荒戸原」と呼んでいました。きっと大雨のたびに洪水になっていたのでしょう。明治になって本町通りの桐生新町を取り囲む桐生市街地北部が「安楽土村」になりました。その後安楽土村が桐生町に編入されたあとは、大字としての「安楽土町」が以前よりも狭まってその名が残りましたが、近年の住居表示の実施で消滅してしまいました。「荒戸」から「安楽土」は縁起の良い字への変更を意識して行ったものでしょう。

 「佐位鹿田」から「西鹿田」への変遷については、関係する文書でも正式名の渕名荘(庄)を使わずに佐位郡の荘園だから「西庄」と書いたりしていることから、単純に第1の原因によるのだろうと思います。しかし、場合によっては新田荘側が鹿田郷に隣接する渕名荘の領域を自領に取り込んだ際に、新田側にあることを示す目的で、意識的に「西鹿田」と表記を変更した可能性も考えられます。

No.10 住居表示の実施でできた町名・消えた町名            ▲戻る

 1962年(昭和37)に住居表示に関する法律ができて、市街地にある古くからの地名が全国各地で消えていきました。新法律学事典(有斐閣)によれば、この法律の目的は「かつて住居等を表示するのに番地によるのが慣習であったが、それが著しい混乱を生じていたため、本法により新たに住居表示による方式を定めた」もののようです。この時期に全国の由緒のある多くの地名が消え、無味乾燥な新しい地名に取って代わられたのは、法律の主旨の誤解だけでなく、高度経済成長のまっただ中で古いものを捨て新しいものに塗り替えさせる時代の雰囲気があったからだと思っています。

 桐生市では、1966年(昭和41)から1974年(昭和49)まで4回にわたって街区方式での住居表示が実施され、中心市街地では一部を除き「○町または○町○丁目」という町名と「○番」という街区名、「○号」という住居番号で住居が表示されるようになりました。

 第1次住居表示の実施(1966年)では、それまで桐生にはなかった「仲町1〜3丁目」と「東1〜7丁目」という10の町ができました。そのかわり、11あった旧町のうち6の町名が消滅してしまいました。新町名と旧町名の対比はつぎのとおりです。私の記憶で書いているので、あるいは細部に誤りがあるかもしれません。

 「仲町1丁目…東町(あずまちょう)、泉町の北部」「仲町2丁目…泉町の南部、高砂町、旭町」「仲町3丁目…常盤町、川岸町」「東(ひがし)1丁目…芳町の西部、諏訪町」「東2丁目…芳町の中部、安楽土町の西部」「東3丁目…芳町の東部、安楽土町の東部」「東4丁目…今泉町」「東5丁目…安楽土町の南部、清水町の東北部」「東6丁目…清水町の南西部」「東7丁目…清水町の南東部」

 東町・泉町・高砂町・旭町・川岸町のそれぞれ一部も、わずかに痕跡として残っているだけです。数世帯だけの町もあります。桐生の市街地図をお持ちでしたら開いていただくと、本町4丁目〜6丁目の東側にへばりつくようにこれらの小さな町があるのが分かります。1971年(昭和46)の第3次住居表示の実施のさいにこれらの町を本町4丁目〜6丁目に編入しようとして、合意が得られなかったという経緯があります。

 東町や旭町、高砂町、常盤町などは、江戸末期か明治期の桐生が発展をして市街地がふくらんでいった時代に名付けられた比較的新しい地名ではないかと思います。東○丁目や仲町と同じ発想のおもしろくない命名のしかたです。これに対して東1〜7丁目や浜松町は、江戸時代には今泉村だったことから泉町の名は「古い泉」を思わせます。同様に清水町なども現在では桐生市街地になっている扇状地の扇端部のわき水で村ができた所であったかもしれません。芳町や安楽土町は桐生川沿いにあって、葦が生えていた洪水の被害を受け易い荒れた土地ないしは「荒れ田」だったのでしょうか。

 このように最初の住居表示の実施では、江戸時代かそれ以前からの由緒ある地名を消してしまいました。本町1・2丁目に残る歴史的都市景観や桐生織り、からくり人形などの伝統文化とともに、古くからの地名なども桐生の文化を構成する一要素であると私は考えます。「仲町」と「東」の両地名は、桐生の伝統文化破壊の象徴のように思えてなりません。

No.11 桐生市菱町の特異な位置                   ▲戻る

 桐生市菱町は、中心市街地の東端を北から南へ流れる桐生川の左岸に細長く位置しています。南から北に向かって1丁目から5丁目まで並んでいて、1万人余りの人口を擁する比較的規模の大きな町です。東3丁目と東久方町の対岸にある菱町3丁目と4丁目は、桐生市街地の一部になっています。

 かつて、ここが栃木県足利郡菱村だったことは多くの方がご存じだと思います。現在、仙人が岳から南に延びる尾根が栃木県との県境になっていますが、以前は桐生川が県境線でした。栃木県菱村が群馬県桐生市に編入されたのは1959年(昭和34)のことでした。45歳以上の方なら記憶に残っていると思いますが、県道桐生坂西線の幸橋と、だるま市の普門寺に通じる稲荷橋は奇妙な橋でした。1本の橋なのに左岸と右岸の架橋工事を施工した県が別なので、どちらも真ん中から東と西がまったく違う形をした橋だったのです。

 栃木県ができたのは明治維新の後ですが、それ以前は下野国でした。そうすると千数百年も前の律令の時代からずっと菱の地は下野国足利郡だったと思いたくなりますが、調べてみるとそう単純ではないことが分かります。

 菱の地名が文献に現れる最古の例は1649年(慶安2)の「野州梁田郡下菱村泉龍院領」と書かれた文献だそうです。ついで1666年(寛文6)の館林検地水帳の表書に「野州梁田郡桐生領上菱村御縄水帳」「野州梁田郡桐生領下菱村御縄水帳」があります。後に5代将軍になる徳川綱吉が館林藩主だったときの検地の記録簿です。ところが2年後の1668年(寛文8)の寛文郷帳には「上野国山田郡上菱村・下菱村」とあります。郷帳というのは領主や代官が毎年幕府に提出した課税台帳のことで、村ごとに領主名と石高が記載されています。この頃耕地の開発が進んだためか5年後の1673年(延宝1)には小友村が下菱村から分離しています。現在の小友よりもずっと広く、黒川左岸とそれにつづく桐生川左岸全部にあたります。桐生川は今よりも平地に食い込んで流れていたらしく、東7丁目や境野町1丁目・4丁目も小友村の領域だったようです。1703年(元禄16)の元禄郷帳になると「下野国足利郡上菱村・下菱村・小友村」と表示されます。

 1987年に出版された平凡社刊の「群馬の地名」所収の「行政区画・石高一覧」で、寛文郷帳の「上野国山田郡上菱村・下菱村」の記載を初めて見たときは、粗忽な役人が郡名(当然国名も)を間違えて記載してしまったのだろうと思いました。しかし1992年に出版された史料集「上野国郷帳集成」所収の寛文郷帳を実際に読んだり、郷帳が幕藩体制を支える権力基盤の重要な要素の一つであることを考慮したりすると、単純な過誤ではないかもしれないと考えるようになりました。

 江戸時代に現れるこの地域に関する文書から感じ取れるのは、桐生領54か村を構成する村として桐生地域の生活圏と一体をなしているということです。下野国梁田郡の本体は、現在の足利市南部の渡良瀬川右岸一帯にあります。渡良瀬川左岸(北側)の足利郡はいちばん西が小俣村でした。古い時代には菱の区域だけが遠く離れた梁田郡の飛び地のようになっていました。なぜなのか非常に興味深いことですが不明です。足利郡の他の村々とは生活圏を異にしていたことの証拠になるのではないでしょうか。

 1876年(明治9)栃木県足利郡下菱村と小友村は合併して黒川村になります。1889年(明治22)の町村制施行に際して上菱村と黒川村の合併で栃木県足利郡菱村ができました。明治初年から90年もの間、菱の住民は生活圏である桐生から切り離され不便な生活を強いられてきたといえるでしょう。
 
No.12 元宿と新宿(しんしゅく)                   ▲戻る

 現在の元宿町と新宿(1〜3丁目)は、桐生の中心市街地の中にある町名で、どちらもその区域はさほど広くはありません。しかし、本宿村、新宿村といわれていた頃の両村の区域は今よりずっと広く、本宿村は元宿町のほかに巴町1丁目、同2丁目、末広町、宮前町1丁目、同2丁目、堤町2丁目(一部)、同3丁目(一部)がこれにあたりました。また新宿村は新宿1〜3丁目のほか、清瀬町、美原町、稲荷町、織姫町、錦町1〜3丁目、三吉町1丁目、同2丁目、琴平町、浜松町1丁目、浜松町2丁目(一部)がその区域でした。本宿村と新宿村の区域をあわせると桐生の中心市街地の西から南の半分にあたります。

 本宿・新宿、あるいは元宿・新宿と並べてみると、時間的に関連のある地名だということに気づきます。当然、本宿が本家筋、新宿がその分家ということになります。

 時間を遡って戦国時代、桐生一帯を領有していた梅田の柄杓山城主桐生国綱の頃、新宿村がまだなかった頃の本宿は今井宿と呼ばれていたようです。今井宿の位置は分かりませんが、江戸時代に入って桐生新町が栄えるようになると、本宿村には渡良瀬川の右岸とを結ぶ赤岩の渡しが置かれ、桐生の西の玄関口として交通の要衝になります。赤岩の渡しは現在の赤岩橋の位置ではなく、JR両毛線の渡良瀬川鉄橋の辺りにありました。宿(しゅく)の名に値する本宿村の中心集落は、元宿浄水場付近にあったのではないでしょうか。

 再び江戸時代から少し時を戻します。1571年に渡良瀬川の大洪水で本宿が流出します。この時新宿を開拓して鎮守八幡宮を遷し、最勝寺も建てたそうです。(新居文書)これが新宿村の始まりです。1590年の北山文書には新宿村の名前があります。新川の南、境野の殿林の手前までの広い区域が新宿村です。

 その後の新宿村の発展は、本家の本宿村を凌駕します。住居表示の実施前には「新宿通」という町名がありました。現在は道路の名称に「新宿通り」が残っています。新宿通りに行くと古い時代の町並みの雰囲気を味わうことができます。日本図誌大系(朝倉書店)所収の1885(明治18)測量の地形図を見ると、北東から南西に一直線に延びた桐生新町(現在の本町)の町並みよりやや見劣りはするものの、それに対抗するかのように新宿村の町並みが北西から南東に延びているのが分かります。桐生市街地の形成過程は、桐生新町と新宿通りの2つの町並みが核となって明治から昭和戦前の頃まで、桐生織物の興隆とともに成長し、大きな市街地になっていったのだと、若い頃に地理学で学んだことがあります。博多と福岡やブダとペスト(ハンガリー)の規模を小さくしたものの、それらと似た街のでき方だと思います。

No.13 群馬県山田郡と栃木県梁田郡(古代の渡良瀬川)                   ▲戻る

 現在の山田郡は大間々町1町だけの小さな郡です。また梁田(やなだ)郡は1896年(明治29)に足利郡に編入されて消滅しました。1940年(昭和15)までの山田郡は地図Aの区域を、17世紀半ば過ぎ(江戸時代初期)までの梁田郡は地図Bと地図Cの区域を示します。梁田郡と関係深い足利郡は、地図Dの区域です。



 Bの梁田郡上菱村と下菱村は、1703年(元禄16)には足利郡とされて、それ以降の梁田郡はCの区域だけになります。不思議なことにBとCの両区域は、直線距離で10Kmも離れた飛び地になっています。なぜなのかを推理してみましょう。

 この地域での国境線は、AB間の桐生川、AD間・AC間の渡良瀬川に沿って引かれました。ただし渡良瀬川は永禄年間(1558〜1570)の洪水以降、AC間ではなく、CD間に流路を変更して現在に至っています。こうして古代の律令制下で、山田郡は上毛野国(かみつけぬのくに)、梁田郡と足利郡は下毛野国(しもつけぬのくに)に振り分けられました。ちなみに現在の県境は、BD間、AD間、AC間にあります。

 律令で国郡制がとられる前には、ヤマト朝廷の地方の支配は、朝廷が有力な地方の豪族を国造(くにのみやつこ)に任命することによって行われていました。たとえば「のちの武蔵」では、それぞれムサシ、ムナサシ、チチブの国造が置かれたので、3つのクニ(国ではない)があったと考えられます。「のちの常陸・相模」など多くの地方でも複数の国造が置かれていたことから、「クニ」は「国」よりも狭い範囲だったことがうかがわれます。ところが群馬・栃木両県にまたがる毛野(けぬ)地方では様子が違い、設置された国造はナス(那須)の国造だけです。このことは辺境の陸奥と境を接する「ナスのクニ」を除いた広大な毛野地方は、朝廷の直轄地に近い性質の土地であったか、逆に朝廷が半ば独立性を尊重しなければ関東や東北南部に対するヤマト政権の支配ができない土地であったかのどちらかを意味するものと考えます。いずれにしても古代の毛野は、小勢力の分立した地域ではなく、強力な単一の勢力が支配をしている土地だったと思われます。

 その後律令制度が整備されるなか、上毛野国と下毛野国に分割される過程でも豪族間の勢力関係が、境界の線引きに及ぼした影響は、他の地域よりも弱かったのではないでしょうか。そうだとすれば現地に生活する住民の意向に関わりなく、権力者が恣意的に線引きをすることがあったことも考えられます。ただ、それだけではB・C両区域が同じ下毛野国梁田郡に属さなければならない積極的な理由とはいえません。両区域に共通性はないものでしょうか。

 古代から中世にかけて、渡良瀬川はAC間(現在の矢場川)を流れていました。そのことがC区域が毛野国の上下2国分割に際し、下毛野国に編入された最大の原因です。もし、それより前の時代に渡良瀬川の流路が現在のそれに近い、CD間であった時期があったとすれば、C区域はA区域と連続することになります。稲作の利水の面で山田郡とC区域の梁田郡は住民の生活共同体があったと考える余地が出てきます。

 A区域とB区域の関係については、前々回「桐生市菱町の特異な位置」で詳しく述べたように、戦国時代から「桐生領54か村」を構成する2村として山田郡北半分の村々とは、生活共同体を構成していました。このように考えるとB区域とC区域は、ともにA区域(山田郡)との間に密接な関係を持つことになります。

 渡良瀬川がCD間を流れていた頃、B・C両区域はともに山田郡に属していたのではないでしょうか。AC間に流路が変わってから毛野国の分割があり、大きな川を国境とするという原則にのっとって山田郡から梁田郡を分離させたのではないかと考えます。AB間の桐生川についても同様のことがいえます。こちらのほうは人為的な国境線が住民の生活共同体を分断できなかった例だといえるでしょう。

 梁田郡の名は、山田郡に由来すると考えていいように思います。下毛野国ができた頃には、B・C両区域はもしかすると「下毛野国山田郡」であったかもしれません。あるいは最初から「下毛野国梁田郡」と命名したのかもしれませんが、発音の類似性(yanadaとyamada)も証拠の一つに挙げることができると思います。
 
No.14 群馬
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 群馬県という名称は、1871年(明治4)に県庁所在地とされた群馬郡高崎町の郡名から名付けられました。お隣の埼玉県や茨城県、山梨県なども県庁所在地の郡名にちなんだ命名のしかたです。ただ、実際の県庁は暫定的に群馬郡前橋町に置かれたまま、1873年(明治6)には利根川の南の入間県と合併して群馬県は熊谷県になりました。1876年(明治9)に旧群馬県の区域と栃木県から東毛3郡(新田・邑楽・山田)が一緒になり、現在の群馬県ができました。この時も県庁は高崎に置かれましたが、高崎町には県庁舎に適当な建物がないということで、すぐに前橋町(旧前橋城)に移転して今に至っています。

 県名のもとになった、かつての群馬郡の範囲は、北は現在の吾妻郡高山村から北群馬郡と渋川市全域、西から南にかけては現在の倉渕村から高崎市の群馬の森付近までの烏川左岸、現在の前橋市域では利根川右岸すべてと、左岸の玉村町との境の上川淵地区・下川淵地区から広瀬川右岸を北上して市街地の南半分を含み、グリーンドーム付近の利根川に至ります。現在の群馬県の中心部が群馬郡の区域でした。1878年(明治11)郡区町村編制法の施行により、群馬郡は利根川を境界に西群馬郡と東群馬郡に分けられました。その後前橋町の市制施行と上川淵村・下川淵村の南勢多郡編入で東群馬郡は消滅しました。西群馬郡は烏川右岸の片岡郡を編入して群馬郡になり、同時に高山村は吾妻郡となりました。さらに戦後の1949年(昭和24)には北群馬郡が分離しました。

 藤原宮の発掘で「上毛野国車評(くるまのこおり)」と記された木簡が出土したそうです。「評」というのは「郡」以前の古い呼び名のことです。したがってこの木簡は、群馬郡を意味することになります。

 今残っている地名には、はるか昔から続いている古いものから、最近付けられた新しいものまで、いろんな時代のものがあります。例外もありますが、多くの郡名は律令制が確立された頃に命名されました。「郡」が設置された千数百年前に郡名が決められたとしても、その名称はそれよりももっと古い由来があるのでしょうから、飛鳥時代や奈良時代にできた郡名というのは、おそらく日本列島に残っている最古の地名にあたるのでしょう。群馬郡(くるまのこおり)も、それらの最古の地名の一つに属するものだろうと考えられます。今はなくなった多胡郡については、多胡の碑に郡設置の経緯が明記されているのでその由来が分かりますが、「くるま」の意味は容易には分からないでしょう。

 古代のこの地方の支配者である上毛野氏の一族に、車持君(くるまもちのきみ)がありました。支配地域は旧群馬郡の中央部だったようです。このことから車持君の支配区域が車評(くるまのこおり)→群馬郡の語源になったというのが有力説のようです。車持ちとは、大王(のちの天皇)の輿(こし)を供奉する有力な側近を意味し、竹取物語の登場人物である車持ちの皇子もこの名に由来するそうです。

No.15 東村(1)                   
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 現在、群馬県内には三つの東(あずま)村があります。紛らわしいので、それぞれ郡名を冠して「勢多東」「佐波東」「吾妻東」と呼ばれています。もう一つ1954年(昭和29)に消滅した「群馬郡東村」がありました。それぞれの村名の推移はつぎのとおりです。

 「勢多東」南勢多郡8村(荻原 花輪 小夜戸 小中 神戸 座間 草木 沢入)が1889年(明治22)南勢多郡東村に、1896年(明治29)勢多郡東村となる。
 「佐波東」佐位郡5村(国定 田部井 上田 東小保方 西小保方)が1889年(明治22)佐位郡東村に、1896年(明治29)佐波郡東村となる。
 「吾妻東」吾妻郡5村(岡崎新田 箱島 五町田 奥田 新巻)が1889年(明治22)吾妻郡東村となる。
 「群馬東」西群馬郡10村(江田 古市 小相木 箱田 後家 前箱田 稲荷新田 川曲 上新田 下新田)が1889年(明治22)西群馬郡東村に、1896年(明治29)群馬郡東村となった後、1954年(昭和29)前橋市に編入されて消滅する。

 これらの「東村」が誕生した1889年というのは、明治憲法とともに府県制、町村制が施行された年です。1871年(明治4)の廃藩置県が、明治政府による中央集権化の着手とすれば、この年は総仕上げの年だといえます。

 「東村」の誕生で消滅した28の村々の前身は、江戸時代以来の郷村でした。その多くは、戦国時代からの系譜を引いています。これらは、江戸時代には、前近代的な身分制社会の中での村でした。テレビドラマの時代劇の影響で、悪代官に搾取される哀れな農民という先入観を植え付けられがちです。しかし、実際には租税の納付は、領主に対して村全体が請け負う形でしたし、犯罪の取り締まりを含む村の自治は、百姓身分である村役人を中心にかなり広範囲に認められていました。領主は村人を助けてくれない、だから村のことは自分たちでやらなければならない、というのが、江戸時代の村の姿だったようです。このように、それぞれの身分内での自治は存在していたといえるでしょう。

 明治政府による旧村の解体、新村への組織替えは、自治権を持つ旧村という殻によって保護されていた農民を、近代国家の国民「何の某」という個人として直接把握するために必要でした。直接の目的は、徴税と徴兵のためでした。もう読者はお分かりのとおり、私がいう「東村」とは、1889年の日本国内のすべての町村を指します。

 このように考えると、群馬県内に四つも「東村」ができたのは、自治権放棄にふさわしいことであったかもしれません。なにしろ村の個性を否定するような村名を選んだのですから。命名者は意図しなかったでしょうが、私にはブラックユーモアのように思えてなりません。それぞれの「東村」は、戦前の中央集権国家末端の行政区画になりました。自治権を剥奪された「旧村」は、この後は大字(おおあざ)と呼ばれる単なる村内の地区名になってしまいます。

 戦後、日本国憲法と地方自治法の施行により、まがりなりにも地方公共団体の運営は「地方自治の本旨」に基づいて行われることになりました。地方公共団体の合併の促進が国主導で行われようとしている今、地方自治とは何かを原点に返って考える必要があります。
 
No.16 東村(2)                   
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 前回の「東村(1)」では、群馬県内には現在「勢多東」「佐波東」「吾妻東」と三つの東(あずま)村があり、さらにかつては「群馬郡東村」を加えて四つの東(あずま)村があったと書きました。このことについて、WEF会員で、多くの著書をお書きになっている上野富美夫さんから、もう一つ「利根郡東村」があったとご教示を受けました。

 1889年(明治22)に利根郡9村(穴原、薗原、大原新町、老神、大揚、高戸谷、追貝、千鳥新田、平川)が合併して利根郡東村が誕生しました。その後1956年(昭和31)に利根郡赤城根村と合併して利根郡利根村が誕生し現在に至っています。したがって、群馬県内の「東村」は、「勢多東」「佐波東」「吾妻東」「群馬東」「利根東」と、五つの東村があったことになります。
 上野さんのご指摘に感謝申し上げます。読者には訂正しておわびいたします。

 さて今回は、東(あずま)という地名一般について述べてみます。個々の東村の命名にはそれぞれ特別の事情があるのかもしれませんが、五つの村に共通するのは、いずれも郡の東端に存在しているということです。この位置関係が「東村」命名のきっかけになったことは間違いありません。しかし、それだけではありません。県内に五つの「東村」が同時に出現したのには、もっと深い意味がありました。東日本の他県で「東」を町村名にしている自治体は、「茨城県稲敷郡東町」と「福島県西白河郡東村(ひがしむら)」の2か所だけです。これらも群馬県の「東村」と共通性はあると思いますが、明治時代の命名とはいえ、群馬の5村は特異な例といえます。

 日本書紀、景行天皇の条に「日本武尊(やまとたけるのみこと)が甲斐より武蔵・上野を経て碓日(うすひ)の坂に至る時、武尊は弟橘媛を思って碓日の嶺に登り、東南を望んで三度嘆いて曰く、『吾嬬者耶(あづまはや)』と。これに因んで山東諸国を吾嬬の国という」とあります。山東諸国は、関東の国々といっていいでしょう。ヤマトタケルの東征のおり、神の怒りを鎮めるため、自ら犠牲となった后のオトタチバナヒメを偲んで言った故事です。碓日の嶺が現在の碓氷峠ならば、「吾嬬の国」の中心部は群馬にあったといえます。

 ところが古事記では、「倭建命(やまとたけるのみこと)が荒ぶる蝦夷らを平定した帰途足柄の坂本に到り、その坂に登り三度歎いて『阿豆痲波夜(あづまはや)』と言った。それ故その国を「阿豆痲」という」となっています。足柄峠は東名高速道路沿いの神奈川・静岡の県境にありました。この場合「阿豆痲」の中心部は、神奈川県や東京都ということになります。ただし、ヤマトタケルの話は神話ですから、歴史的事実ではありません。碓氷峠か足柄峠かの詮索は無意味です。

 713年(和銅6)奈良の朝廷は、諸国に「風土記」の編纂を命じました。現在まで伝えられているものは、「出雲国風土記」「常陸国風土記」などごくわずかしかありません。もし「上野国風土記」が残っていたら、どんな話が収録されていたかと想像するのは興味深いことです。日本書紀や古事記とは別のヤマトタケルの神話が記載されていたかもしれません。もしかすると、鳥居峠から東を振り返ってこの言葉を発したことから「吾妻郡」が命名されたと書かれたかもしれません。ずっと後世にできた地名ですが、「嬬恋村」も同じ故事に由来するのでしょう。

 「あづま」の区域は、時代を遡るほどその範囲が広がり、古代には逢坂の関(滋賀県大津市)から東を「あづま」と言っていたようです。これが最広義の「あづま」です。ただ、「東国」と「あづま」は必ずしも同義語ではなく、東国といった場合、東山道の信濃国(長野県)以東、東海道の遠江国(静岡県)以東を指したようです。最狭義の「東国・あづま」は、碓氷峠・足柄峠(江戸時代には箱根峠)以東の関東を指します。この場合「坂東」とも言われます。鎌倉時代には都の人々は、鎌倉や幕府そのものを「あづま」と言うこともあったそうです。

 都の人々からときに「あづまえびす」と言われて侮辱されたこともありましたが、吉田兼好が徒然草に「東人こそ、言ひつることは頼まるれ」(東国の人なら、言ったことは信頼できる)と述べているように、鎌倉武士の時代から東国人気質には、誇るべきものがあったようです。
  
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