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●「やさしい女性学」《ジェンダーフリーをめざして》 (連載終了)
(小林やすえ、WEF会員、「女塾」主宰、「共育つうしん」42号〜51号、1998年10月〜2000年4月掲載)
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桐生市にはまだ「女性の行動計画」が作成されていませんので、なかなか男女共同参画社会の意味が正しく伝えられていないようです。そこで、次世代の子どもたちのためにも、親として知っておく必要があるのではないかと思い、一年間継続して書いてみようと思ったわけです。「女性学」とか「ジェンダー」について日常の身近かな話題の中から取り上げてみます。
まず第一回は「女性学とは何か」「ジェンダーとは」について書いてみます。
最近はジェンダー(gender)ということばが盛んに使われるようになりました。ジェンダーは生物学的性差(性別・sex)ではなく、文化的、社会的につくられた性差のことを言います。つまり、女らしさ、男らしさとか、女性性、男性性とか、男役割、女役割といって生育期にそれをあたり前としてしつけられてきました。そんな社会の中で、現在それを不都合と感ずる人たちも出てきたのです。だから、みんなで考えてみようということです。それと「女性学」はアメリカの Women's Studies(1960年頃の女性の地位向上運動から生まれた・小松満貴子)の訳語で、今までの社会や文化が男性中心だったことに疑問をもち、女性の視点(差別されてきたこと・人間尊重の視点のこと)で社会や学問など、あらゆることを見直してみようと研究され始めたのです。
女性学は今「ジェンダー研究」と同じような意味でも使われてきているようです。大学のカリキュラムにも「女性学講座」として、「女性と家族」とか「女性と労働」「教育女性学」「ジェンダー発達心理学」「ジェンダーと法」「差別の起源」「ことばと女性」などなど、あらゆる分野に女の視点で研究、学習が始まっています。
公民館の女性向き講座でも「主婦とおんな」とか「女性の社会参加」とか差別に気づく学習から始められているようです。桐生市でも「女性プラン係」ができましたし「男女混合名簿」を実施している学校も増えつつあります。
自分らしく生きることの難しさをつくづく感じた私の人生で、「目からウロコ」だった沢山のことを気づかせてもらった「女性学」に感謝しながら書いてみたいと思います。
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| ■No.02 「仕事も家事も育児も介護も両性で」 ▲戻る |
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私は結婚(昭和37年)して専業主婦になり、長女と長男の2人の子の親になり、夫は仕事、私は家事、育児という性別役割分業のパターンで生活してきました。途中働きたくてウズウズしてましたが、子育ては誰がするのか考えると「やっぱり私は働けないわ」となりました。母親が同居していた時期があり、母に留守を頼んで働こうとしたら「女は家にいるものだ」と言われてショックでした。その点は現在の「女も働きなさい」という社会は羨ましい気がします。
しかし、私は子育てだけをやっていると子どもを駄目にしてしまうのではないかと感じていたので、親や夫に頭を下げて「働かせてください」と頼みました。そうなると、私は仕事と家事、育児の「三じ」の母になってしまいました。しかし、現在でもまだまだ「三じ」の女性が沢山います。働く女性にも奥さんがほしいという声が時々聞かれますが、子育てには時間をとられても、やりがいや幸せ感がついてくるので女たちもつい無理をしてしまいます。私は夫に子どもの遊び相手を頼みました。その点を考えると、実は子どもから「パパ、パパ!」と慕われて得したように思います。私は台所で片づけものや洗濯に大忙しの毎日でした。
子どもが大きくなってからは自分でなんでもさせてきたので親離れ、子離れは早い時期にできました。男性にとって仕事は大事でしょうが、女にとっても仕事は大事なものです。女が育児のために仕事を辞めることは人権の問題でもあると言えます。
男女共同参画社会の実現に向けて、行政はエンゼルプランとして予算をつけて、働く女性支援に動きだしました。本当は両親支援なのですが、私たちの意識が変わらないためにお母さんへの支援と勘違いされがちです。ですから男性も育児休暇をとったり、短時間労働制度をつくったりと、両性の責任で子育てに参加できるように、企業も協力していくことが必要ではないでしょうか。
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| ■No.03 「時代に合った役に立つ『らしさ』より自分らしく生きる」 ▲戻る |
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私は昭和39年に長女を出産、42年に長男を出産し、その時のこと、男の子が産まれたことがわかったら「あぁ、よかった私も威張れる!」なんて思ったのです。これって男の子は家の跡継ぎという考えがあって、私もつい、そんなことを思ってしまったのでしょう。
昭和12年に私が産まれた時に、父は「また女か」と言ったそうです。現在でも、もしかしたら周囲の人からお嫁さんに「男の子ができるまで頑張りな」とか「まだ子どもができないのかい」とかいう人がいるかも知れません。しかし、今は、余計なことを言うと「プライバシーの侵害」ですよと言われます。その人の人生で子どもを産む、産まないはその女性が決めることなのですから。
それから、現在は逆に女の子が産まれると両親が喜ぶそうですね。統計で見ると、女の子は将来は親の介護をしてくれると考えるそうです。ところが、将来は女性も仕事を持つので、男性も自分の親は自分で介護休暇をとって看ることになるでしょう。
だから、学校で「家庭科男女共修」になり、女だから、男だからと「らしさ」を周りの人が押しつけてはいけなくなったのです。
保育園に来る子どもが、まだ3歳にもならないうちから「僕男だから泣かないよ」という。これは親に言われて仕方なく言った言葉であり、本人は本当は泣きたかったに違いありません。そんな男の子が成長して、無理した自分の生き方に疲れ、弱い人に暴力を振るうことにもなっていくのでしょう。最近は男性たちも本音を語り、悩みを素直に語り合う仲間づくり(メンズ・リブのグループ)を始めているようです。
次回は「教育の中のジェンダー」について書いてみます。
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| ■No.04 「ジェンダー・バイヤス(歪み・偏見など)を再生産してはいけない」▲戻る |
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学校の中で先生が子どもたちについ言ってしまう言葉の中に、「女の子はそんなことをしてはいけない」とか「男のくせに泣き虫だな」とか「女の子は短大まででいいんだよ」とか「女なのに理数科がいいね」とか「男のくせにスポーツやってないのか」とか、女だから、男だからというステレオタイプ(固定観念)の発言が多くあるようです。また、生徒の体験からは男の子から「女なのにポケットティッシュも持っていないのか」と言われたり、成績のよい女の子が、成績の悪い男の子に「女のくせに、頭にくるよな」とか言われ悔しい思いをしたという。
男の子の場合は「男ばかり叱られる」という。「男だから我慢できるでしょ」とかピアノを習うと「女みたい」と言われるとか、男の子も結構悩んでいるようです。
先生たちの価値観が「隠れたカリキュラム」として毎日、生徒に無意識に伝えられていきます。それは親にも言えることで、家庭の中の親の言葉は、その子の一生を決めつけてしまいがちです。親に文句を言えない子の環境は、不満が充満しがちです。
ジェンダーバイヤス度(固定観念)の高い人はジェンダー・フリーに向かって固定観念をもう一度見直して見ましょう。
(「GENDER・FREE 若い世代の教師のために」東京女性財団発行を参考にしました)
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| ■No.05 「女らしさの病い(男らしさの病い)」 ▲戻る |
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女性は母親業をしながら、いつも他人の成長に対して積極的な関わりをもっているそうです。男性中心社会の中で育てられているので、男性の文化の要求にうまく適応するよう努力して、そして評価されることを期待したり、自分自身にも「男性の目」でみた評価をしてしまうそうです。要するにいかに劣った者になるかを学んでしまうのだそうです。
女性が長い年月、周りを気にしながら生活していると、自分の要求が何なのかわからなくなってしまいます。女性が自分のために生きようとすると、外の者からは「自分勝手で、我ままな女」として評価されることが今までに多くありました。やっと現在は自由に気ままに時間を過ごしていても、世間はあまり文句を言わなくなったようです。
女らしさの病いは、女が健康に生きられないような社会であったわけで、女性本人には責任がないのです。そんなことから、フェミニスト・カウンセリングが研究されました。女性のための元気のでるカウンセリングであると私は理解しています。専門家になるべく研修がありますが、女同志で理解し合えば、話し、聞き合うことだけでも効果はあるものです。若い女性たちが元気そうに見えますが、母親の行動を毎日見て育ってしまえば、決して自分自身を生きていないことに気づく時がくることでしょう。女性たちが年齢に関係なく変わる努力をしなければ、今までの価値観は再生産されてしまうことは必然です。
だから「若い世代は年寄りの真似をしないから大丈夫よ」という人がいますが、それがそうはいかないから大きな問題になっていることを知ってほしいものです。今までの価値観が変わるのには次世代の次になりそうです。そんなに早く変わってくれたらよいけれど、現実は二歩進んで一歩下げる人が必ずいるものです。だから意識の変革は簡単にはいきません。やはり、気づく学習の継続が急がれているのではないでしょうか。
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4月3日、NHKでメディア・リテラシーについて放映していました。メディア・リテラシーとはメディア(ここではテレビをいいますが)から発する情報を正しく受け取る力とか、情報発信する媒体とか言われています。
一方的に流れてくるテレビ情報は、誰かがつくった、さも本当のような、現実離れした内容なども流れています。それを受け取る方が何の疑いもなく信じる人もいれば疑う知識をもっている人には、それを批判する力があるから受けいれないですむ。メディアとはそういうものなので、見る者が日々力をつけていく必要がある。その力をつけていくことをメディア・リテラシーと言っているようです。
日々のテレビの中で、私たちは擬似体験をしたり、新しい価値観を教えられたりして大きな影響を受けています。そのテレビの内容のほとんどが男性の製作者によって作られています。つまり、男性が見るような事柄の価値観を信じて、女性たちは男性が見るような目で自分をも見てしまう現象になるそうです。それをメディアセクシズ(性差別)[『メディア・セクシズム』垣内出版から引用]と言います。
メディアの中の女性は現実離れした画一的な女性像が多いそうです。女性の性を商品化するような映像だったり、内容だったりすることもあります。最近は、女性たちのビデオをつくるグループができて、「ベビー服の色が女の子だとピンク、男の子だとブルーなのはなぜ?」とか「赤いランドセルは女の子で、黒いランドセルは男の子なのはなぜ?」という内容でビデオを作り発表しているようです。これは今までテレビの製作はいつも男性だったので、男性の視点からのみ作品が作られていたわけで、それを見ていた女性たちは、すっかりそれらをインプットしてその常識を受け入れてきたわけです。だから、よく考えていきたい新しい問題なのです。
今後、メディアの中の女性たちが素直に元気に表現されることを願うと共に、女性たちがメディアをチェックしていくことが大切になってきました。学校教育の中でもとりあげていく必要をNHKの番組でも話していました。
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| ■No.07 「『女ことば』と『男ことば』」 ▲戻る |
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1995年に『国語辞典にみる女性差別』という本が三一書房から発行されました。それには悪意のない女性への「さげすみ」「おとしめ」を表現していることばが沢山記述されていたのです。例えば、女々しい・女だてらに・売れ残り・うまづめ・老婆・悪妻・女丈夫・女の腐ったよう・などなど。これらのことばは、使われることによって常識となって、正当化され、再生産されてきたのです。
でも、私がここで言いたいことは、日常の会話の中の話しことばのことで、女性はいつも相手を立てて物を言っていることが多く、へりくだった物言いをしています。要するに、生意気な女と思われないようにとか、男性をないがしろにしないような言い方をします。男性の中には余り気にしない人もいるでしょうが、女性に威張られると頭にくる人も結構います。だから男性に合わせて物を言う習慣ができてしまったのです。例えば、職場の女性の上司から命令さ
れることを嫌う男性がまだいます。
男性のイメージとしては「強い」「積極的」「決断力がある」「攻撃的」などで、女性はその反対に「弱い」「消極的」「従順」「やさしい」など、生活の中でそれらを身につけてきています。でも21世紀はそれにこだわらずに生きましょうというメッセージが今流れているのです。
私の体験を一つ書いてみます。こどもが二人になって子育てでイライラしていた時、夫と喧嘩になりました。私は台所のテーブルの上にある茶碗の中から一番古い茶碗を選んで台所のタタキに思い切り投げつけました。清々しました。だって、女ことばでケンカできないからです。私の中に「ばかやろう」とか「このやろう」とかということばがないからです。乱暴な言葉は心の中の怒りを発散させる力を持っています。例え口に出していわなくてもです。私はその後、運転しながら男ことばを練習しました。ちょっと聞かれたくないことですが、本当のことです。女らしくと言われ続けた私の人生を振り返り、私らしく生きようと元気の出た瞬間だったのです。
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母性神話というのは、女性には本能的に母性愛があるという説を否定し、それは神話にすぎないということです。その論文を書いたのがフランスの哲学者のエリザベート・バダンテールさんです。良い母親の条件は文化的、社会的要因によるものですよと言っているのです。つまり、母性愛を絶対視することはないと言っています。
最近は「育児をしない男性は父親とは呼ばない」とか広告していますが、そんなことは、ずっと前からそう思っていた女性が結構いましたが、口に出して言える社会ではありませんでしたね。もし言えば「女のくせに子育てするのが当たり前だ!」と誰からも言われるからです。その辺から三歳児神話も出てきたのではないでしょうか。
三歳児神話は、三歳までは大事な時期だからお母さんが家にいて育てるべきだと言ったり、「三つ子の魂、百までも」という諺などで、働いているお母さんはとても辛い思いをしてきました。また、働きたいと思っていたお母さんたちにとっても大変に辛い子育て期間でもありました。
日本の女性労働がM字型曲線(いちど退職してから再就職すること)を描いていることが、それを証明しています。日本の社会は安いパート労働によって支えられてきたのかもしれませんし、悪くとれば母性愛を強調して市場の利益を追求してきたのかも知れません。中には女を保護してやっていたのになんて言う人もいますが、保護して支配してきたような構造は女性にとっては何とも情けない存在です。母性神話が現在でも母親をいわれない悩みに追い込んでいることを考えると、性別役割分担の罪は深いものだと言わざるを得ません。つまり「私って悪い母親なのかしら」と、いつも自分を責めながら育児をしているお母さんが沢山いるからです。今回はちょっと辛口になってしまいましたね。
次回はこの続きの三歳児神話についてもう少し書いてみます。
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| ■No.09 「母性神話と三歳児神話 2」 ▲戻る |
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私たちは「三歳までは母親の手で育てた方がよい」という話を専門家からよく耳にしてきました。しかし、働く女性の増加によって、保育園で育てられる子どもたちが増えてきたので、その子どもたちがどのように成長してきたかの調査が始まったのです。もうずいぶんと前から言われてきたことですが、保育園で育てられた子どもたちは、世間で言われているようなことはなく、とても心身共に健康に育っているという結果が統計上も出ています。最近では、家庭で育てるよりも、保育園で集団の中で育った方が良い続果が出ているそうです。要するに、愛情もって育てられれば、誰が面倒みてもよいのです。お父さんでも、おじいさんでも、おばあさんでも、お姉さんでもよいわけで、世間がそれを当たり前にみていくことが大切なのです。
日本では良妻賢母教育が強調されてきたために、嫁とか妻の地位が低くても母親は美化されてきたようです。19世紀や20世紀の一つの進歩はこの母親(女性)を評価したこととか。しかし、母親は自立からは程遠く、子育てを生き甲斐にして子どもの出世のみを願って育てる母親が出てきたのです。それが、結果として女性の「空巣症候群」を出現させ、子育て後の人生に不安をもたらしたりもしています。また、良い妻をしてきたら、定年後の夫との生活に不安をもったり、中には、夫在宅症候群という症状などで、台所に立つと手が震えて何もできなくなったり、いろいろな症状で本人を苦しめるそうです。これらは、自分らしく生きることを忘れてきた結果ではないでしょうか。
学校の家庭科の中で育児についての学習の時にも、今の中学生が「子どもを保育園に入れるのはかわいそう」という生徒がいるそうです。ここでも母親の育児の強制が生徒に染み込んでいます。そう言っていた子が就職する時期にきて、やっと女性の自立の大切さを知ることになるのです。このように、時代に合った学習がなかなかされていないことを私たちはもっと考えてもよいのではないでしょうか。
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9回にわたって「ジェンダー・フリーをめざして」と題して、女性学のポイントを私なりにまとめてみました。みなさんはどうお感じになったでしょうか。女性学というより、女性社会学といった方がわかりやすい気がします。
男女平等とか、人権尊重という言葉も18世紀以降に使われはじめたと聞いていますが、つい、この間まで「人間」は男性のことで女性は含まれていませんでした。1995年の北京女性会議で「女性の権利は人権である」と宣言しました。1975年の「国際婦人年」の時、お互い(男女)が認め合うことで平等が実現できると思っていたのですが、それだけでは平等社会にならないことが理解されてきました。性別役割分担を見直さないと変わらないのだと国連レベルで条約をつくりました。でも、私たちはその条約について学ぶ機会はあまりありませんから、なかなか日常生活に関係ないと思い「男は外(仕事)女は内(家庭)」という考えが当たり前のように正しいと信じてきました。
ところが、やっと北京会議で男女平等が普遍的な価値として受け入れられ、日本も男女共同参画ビジョンがつくられ、男女共同参画社会づくりの実現が、緊急で重要な課題と謳われました。その大きな動きが「女性に対する暴力」の問題で、日本でも予算をつけて対応、調査など迅速にすすめられ、研究され始めました。しかし、ずっと以前から民間のボランティア団体が女性の避難所をつくって対応はしていました。
高齢社会、少子社会と言われる中で、弱者に対する社会の動きも変化してきつつあり、勇気をもって発言していく流れも出てきました。女性たちの場合、女性学を学ぶと自分の人生を否定されるようで、とてもついていけないと思うのも無理はありません。毎日の生活は無意識に動いていることが多いし価値観が変わることは痛みを伴うものなので、緩やかな変化をと私は期待してきました。それでも、習慣化された日常、慣習になっている行事が、時代の変化のなかで他人をキズつけていることに気がつかないことも多くなりました。それが今の日本ではないでしょうか。
「共同参画」という言葉も昔からやってきたじゃないかと。それは女は女の領域で、男は男の領域でということでした。もう、そのやり方では、国際社会のなかで浮いてしまうようになりました。若い人たちの感性におとなも学び、おとなの経験を伝えて、お互いに学び合っていきたいものです。(完)
※以上、このシリーズは1998年10月にまとめて書いたものです。その後、「男女共同参画社会基本法」も成立しました。地方自治体でも、それぞれの行動計画が成立しつつあることを書き添えます。
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