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●特別寄稿「学力低下の問題を考える」(連載終了)
(長友 誠、WEF会員、「共育つうしん」47号〜50号、1999年8月〜2000年2月掲載)
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この10年20年、人口、自然環境、国際関係、経済、先端技術などが急激に変化してきたのに対応して、教育の状況も目まぐるしく変わってきた。マスメディアに取りあげられるキーワードも毎年変わってきたような感じがする。校内暴力、登校拒否、不登校、と変遷し、今は学級崩壊が話題になっている。その学級崩壊にしても高校、中学、小学校と年々低年齢化し、また「学校」崩壊という言葉まで現れた。
「落ちこぼれ」「落ちこぼし」という言葉は最近までよく使われていたと思う。しかし今は一部の生徒のレベル低下だけではなく、全体的の「学力低下」が問題になっている。小学校の算数のカリキュラム(教育課程)に無理があるので生徒がついてこれない、数学の応用問題が弱い、生徒の理科に対する関心が低下してきた、コミュニケーションとしての英語が身についていない、国語力が無くなってきた、とかいうことは何年にも亘って言われてきた事だが、今回の、生徒の負担を軽くするべく改定されたカリキュラム実施を機に、全般的な「学力低下」が俎上に上がっているのだろう。
今私は、桐生市内の高校でパートタイマーとして英語を教えているが、生徒の学力低下に関係のある事象をいくつか取り上げてみたいと思う。
数年前までその高校で英語を教えていた先生がこんなことを言った。「私が高校の時は英語は予習してくるのが当たり前で、全員予習してきたが、今は予習してくる生徒が少ない。信じられないことだ」。実はその先生が高校3年の時、私がそのクラスの英語を受け持った。それは20年以上前のことで、太田地区の学校でのことでである。今思い出すと、確かに生徒はキチンと予習をしてきて授業中も私の方に顔を向けよく聞いていた。辞書を学校に持ってきて疑問があれば引くのも当たり前の事で、生徒の辞書を見ると、一度調べた言葉に赤線を引いて各ページが赤で埋まっている生徒がいた事を思い出す。
例えば次のような授業の進め方に生徒はついてきていた。3年のリーダーなので、かなり難しい英文なのだが、授業の始めに、その日にやる箇所をテープをかけて聞かせる。本を見ないで耳だけで意味を聞き取ろうとする生徒も何人かいる。その後本を閉じさせて、内容について英語で質問し、生徒に英語で答えさせる。結構生徒は答えられた。Yes, No,だけでなく、かなり長い答を要求する質問も出した。ある生徒が長い答えを間違えなくすらすら答え、私も驚いたことが印象に残っている。今私は3年生を教えていないので断言できないが、同じ方式の授業は今は通用しないのではないかと思う。
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今1年生に「英文法」のテキストを使って英語を教えている。20年前から「英文法」という教科書(文部省検定済みのテキスト)は存在しなくなったのだが、いわゆる進学校は大抵「英文法」のテキストを使い、「英文法」の時間を置いているようである。どのテキストにも文法事項毎に分り易い短い英文が示してあるので、これをがむしゃらに暗記すれば英語で表現する力がうんとつくし、読解力も増大する。今使っている テキストには実生活で使える例文が多く載っており、その文を使って実感的に英文を発話できるし、またそうする事が望ましい。
ある大学の先生は「従来の文法指導は構造中心であった。コミュニケーション能力を育成するために、言語の構造ばかりでなく、言語の機能面をも重視し指導をすべきである」と言っている。つまり「英文の組み立ての理屈を教えるばかりでなく、その文または応用文をどんどん言えるようにしろ」と言っているわけだ。それで私は時々、例文を使って質問をしたり、口頭で応用作文をさせたりしているのだが、がっかりする反応によくぶつかる。
先日不定詞の所で“My dream is to be a pilot.”(私の夢はパイロットになる事だ)という文が出てきたので自分のこととして“My dream is to go to many countries.”(私の夢はいろいろな国に行く事だ)と言ってから「じゃ自己紹介して貰おう」と言って生徒を指すと「ありません」という返事が圧倒的。“I found it interesting to listen to the music.(その音楽を聴いてみたら面白かった)という例文に対して“I found it interesting to play a TV game."と自分のことを紹介してから「はい、自己紹介!」と生徒に自分の経験を語らせようとすると、これも「ありません」という答えが返ってきた。生徒に生き生きと英語で口頭発表をさせようとする私の目論見は見事はずれてしまった。「一昔前は生徒は生き生きしてもっと反応があったのになあ」と思う。でもとても反応のあるクラスもある。
この数年ある所で、いろいろな国から来た研究員に日本語を教えてきたが、このようなやり方で日本語の文を作ってもらうと、積極的に発話してくれていた。これは自分の意志で参加してくれる日本語クラスだから、学校の授業とは比較できないとは思うが、学校でうまく行かない原因は、私自身の生徒への接し方を含めいろいろあるようで、奥が深ようだ。原因がなんであれ、これでは英語の力がつかない。
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「受動態」の所に“We must do something to cut the trade surplus”(貿易黒字を削減するために何かをしなければならない)を受動態に変えよ、という問題があり、解答は “Something must be done to cut the trade surplus.”(貿易黒字を削減するために何かがなされなければならない)なのだが、機械的に文の形を変えるのではなく「何かがなされなければならない」という表現を理解してそれを英語に直すという過程が大事だと思う。
ところがこの日本語の表現がピンと来ないという生徒が多い様で驚いた。それで東京に住んでいる息子に「何かがなされる、という意味が分かるかい」と聞いたら「ピンとこないけど、普段そんな言葉使わないから分からなくても良いんじゃない?」と軽く言われてギャフン。「戸口でノックの音が聞こえたので出た」を英語にすると固い言い方だが“The knock on the door brought me to the door.”と言える。だがこの文は「ノックの音が私をドアに導いた」という日本語がピンと来なければそういう表現は出てこないだろう。
約20年前に大学教授と国会議員の間で英語教育は教養のためか実用のためかという論争が継続して行われた事があった。その大学教授は「英語を読んだり、英語で表現したりする事は知的な訓練になる」というようなことを言っていたが、上に挙げたことは、英語を通して日本語での思考をしっかりしたものにできる事例であろう。数学でも同じことが言える。日常の数の計算で使わない x とか パイ(円周率)とか「ルート −1」等を数学の中で使う事は思考次元を高めていくことになるし、日常で猛烈に使われているコンピューターこそ、上記の日常で使わない概念を基礎として作られたものではないだろうか。
去年のことだが、矢張り一年生の教室で身近な応用文を作ろうとして「アウシュビッツ」という言葉を入れた。生徒がキョトンとした顔をしていたので「アウシュビッツを知っているだろう?」と3人の生徒に聞いたら2人知らなかった。社会の出来事に関心を持ち、新聞を読んだりしていれば、たとえ「歴史」の時間に習わなかったにしても、今世界各地で起こっている「民族浄化」の原点になる「アウシュビッツ」を知らないというのは頂けない。
今勤めている学校で15年程前にPTAの役員と教員との間で話し合いを行った事がある。役員の主な要求は「教員はもっとよく授業をやってくれ」ということだった。一例として「教科書が終わらない先生がいる」というのがあった。教員の側で「大事な事を詳しくやると終わらない事がある。だけど終わらせることに主眼があればそれは簡単なことだ」という発言があったように記憶している。 他地区の高校にいた時、或3年生が或歴史の先生を評して「あの先生は深い先生で、中国史に時間をかけるので教科書の終わりまで行かないのです。だから大学受験用に習わない部分は自分でやります」と当然のこととして言っていたのを思い出す。つまり「アウシュビッツ」を学校で習う習わないが問題ではなくて生徒が問題意識を持って自発的に学習するかどうかが問題なのだ。
上に挙げたいくつかの事例から、英語が深いところで国語、数学、歴史等に繋がっているということが言えそうだし、また、「問題意識を持った自発的学習」を生徒にどう持たせるかということに学校全体として取り組むことの必要性を感じさせられる。
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先日インターネットから取り出した東大教育学部の研究室発信のものに、その先生が「学生の20年先の事を考えて教育しているかと問われて愕然とした」と書いてあったが、現場でそういう討論がなされているのだろうか。
今月、孫が生まれて1年になるのでお祝いに東京に行ってきたが、若い夫婦は共働きで日曜しかくつろげないので、一生懸命に赤ちゃんに接していて、自分の子育ての時、余り子どもに目を向けなかったっことを改めて反省した。ところが気になることがあった。赤ちゃんを「ガラガラ」のようなおもちゃであやし、知らん顔をしていると次々とおもちゃを変えて反応させようとしていた。家内も私も「気が散る子になってしまうよ」と助言した。
大きなおもちゃ屋に出かけた。靴を履いて歩けるのに子どもをベビーカーに乗せている母親に2人ばかし出会った。 或母親は自分でスプーンを使って食べられる位の子に、食べたいという意欲を見せていないのに、スプーンでヨーグルトか何かを口に運んでいた。これらはみんな母親が「子どもの自分でやる意欲を育てる」という観点をどこかに捨ててしまった現象に写った。つまり20年先のことを考えていないのだ。こういう子が「指示待ち人間」、言い換えれば「問題意識を持って自分でやろうとする」ことをしない人間になるのではないかと思った。
でもこれは幼児期だけのしつけ方の問題なのだろうか。学校ではどうだろうか。印刷物、生徒への指示、一方的な教科の知識の与え過ぎ等で生徒は食傷していないだろうか。忙しい中を補習している先生には響きは良くないと思うが、できない生徒を呼び出してする補習は生徒を益々受け身にしてしまうのではないか等の心配がつきまとう。
私の狭い経験から述べた事だから、全然違う生徒や子どもが数多くいるだろうし、20年先を考えて取り組んでいる学校もあるだろう。特定の学校での状況を具体的に書いたことは、いろいろ問題を抱えている先生が、どんどん自分の体験、意見を外部に発信してもらいたいからだ。それが「学校の情報公開」に繋がり、地域との共同作戦でもっと良い生徒を作り、もっと高い学力のある生徒を作って行く大きな要素になると思う。(おわり)
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