●恥を「書く」
(浅野良雄、WEF会員、「共育つうしん」43号、1998年12月掲載)
ここ数年来、「共育つうしん」の編集を担当しているが、投稿を呼びかけても、なかなか原稿が集まらずに苦労している。会員の中から、この人はと思って原稿を依頼しても書いていただけなかったり、時には発送の封筒の中に「執筆依頼」を同封してお願いしたりもしたが、成功率は20%位だ。
編集者の怠慢と言われればそれまでだが、自主性を重んじるという方針はできる限り貫きたいと思っているので、これ以上、強制的?な働きかけはしたくない。
原稿を書けない理由はいくつかあるだろう。「書くことがない」「書く暇がない」など。そして、時々耳にするのが、「掲載されるものが、どれも立派?な文章ばかりで、私などが書くのは恥ずかしい」という理由だ。この場を借りて、この3番目のことについて私の考えを述べたい。
書くということは、深さの違いはあるにしても、自分の内面をさらけ出すことだ。「こんな低次元なことを言ったら馬鹿にされるのではないか」とか「こんなことを考えているのは自分だけではないか」とか「文章を書くのが苦手だ」とか、いろいろと躊躇することはあるだろう。文を書くということは、それが本音であればある程、恥ずかしさが伴うのは事実だろう。それでも積極的に書こうとする人の心の中では、恥ずかしい自分を見せたくないという気持ちと、それでも書きたいという衝動とが戦っているのかも知れない。
ところで、私はカウンセラーを仕事としているが、相談に見える方は、ほとんどが自分の中に恥ずかしさを抱えている。詳しく論じるスペースはないが、心あるいは身体の中に恥ずかしさがたまり過ぎると、悩んだり、ノイローゼになったりするようだ。カウンセリングの場で、勇気を出してそれを語り、カウンセラーに受けとめられることによって、健康な心身を回復するのではないかと思う。さらに多くの人に語れるようになれば、同じような恥ずかしさを抱えている人は、本人が考えていた以上に、世の中にたくさんいるということを発見して、ますます生き生きとしてくる。より多くの人に認められることは、心の健康にとって不可欠なものだろう。恥ずかしさというのは、いったん外に出してしまうと案外楽になるものだ。そこでつながれる仲間がいる。たいていの人が隠しているから、自分だけだと思っているだけだろう。
では、私はと言うと、恥ずかしいというか、苦手なことは数々ある。特に「団体での球技」が苦手だ。もともと運動能力が高い方ではないので、自分の失敗がチームの迷惑になることを思うと余計に体が固くなってしまって、ミスを連発する。学校時代は、体育の授業が嫌で仕方なかった。社会に出て、やっと体育から解放されたと思ったら、親睦球技大会があった。その後、ある事情で退職して、それからも解放されたと思ったら、今度はPTAの親睦球技大会。それは何とか逃げ回ってこられた。ただし、自己弁護のために言っておくと、卓球や鉄棒などの個人競技はそこそこにできるから、運動能力が全くないわけではないようだ。誰にも苦手なものというのはある。あって当然なのだ。
こうして、運動に限らず、だんだんと、自分の恥ずかしい部分、苦手な部分を表明して開き直れるようになったので、ずいぶんと生きるのが楽になった。
そして今、自分の中の積年の劣等感を文章という形でオープンにして、名誉挽回?をしている。この「共育つうしん」が、会員同士、共に「恥を書き合って」共に育ち合える場になったら素晴らしいと思う。
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