本文へスキップ

桐生東部教会は日本キリスト教団に所属しているプロテスタントの教会です。

〒376-0035 群馬県桐生市仲町2-11-14
牧師 三浦 啓

Tel.0277-44-4879Fax.0277-32-3139E-Mail.tobu1915@ktv.ne.jp

礼拝メッセージ集 (目次表題をクリックすれば本文へジャンプします)



2014年10月26日 「小さい羊」
2014年10月19日 「+一(プラスワン)」
2014年10月12日 「待つこと、開くこと」
2014年10月05日 「招かれる意味」



2014年9月28日 「証」(ソー・エー・ソー/アジア学院学生・ミャンマー出身)
2014年9月21日 「敵って?愛って?」

2014年9月14日 「愛は律法を全うするもの」(篠原 愛義 牧師/舘林教会)
2014年9月07日 「君は選ばれた人」


2014年8月31日 「新しい人を身に着けなさい」(金子 健 牧師)
2014年8月24日 「共に生きるために」
2014年8月17日 「七転び八起」
2014年8月10日 「チムグリサ」
2014年8月03日 「かかわらなければ」
   


2014年7月27日
「愛ワカツ」

2014年7月20日 「欠きの種」
2014年7月13日 「沈(ちん)プレイ」
2014年7月06日 「奇跡の条件」

           

2014年6月29日 「スローライフ」
2014年6月22日 「リンダリンダ」
2014年6月15日 「生えて伸びて咲いてゐる幸福」
2014年6月08日 「タテ+ヨコ=エクレシア」
2014年6月01日 「ドラえもん のび太のいつまでも残るもの」

           

2014年5月25日 「最初の教会」
2014年5月18日 「小枝を生む枝」
2014年5月11日 「アイ」
2014年5月04日 「イエスは良い羊飼い」

           

2014年4月27日 「信じる者になる」
2014年4月20日 「復活による始まり」
2014年4月13日 「人の弱さとイエスの強さ」
2014年4月06日 「家族になる」

           

           

           

           

           

           

2014年7月27日 「愛ワカツ」

マタイによる福音書7章7−12節

 今日の聖書に「求めなさい。そうすれば、与えられる」とある。求めれば、それが神によって与えられるというのである。本当にそんなことがあるのだろうか。これは、求める物が何でももらえるということではない。求めている物が、その人にとって本当に必要な物かどうかを神が見極め、もしそれが本当に必要な物なら、神がそれを必要な時に与えてくれるというものである。

 今日の聖書にある「求めなさい」、「探しなさい」、「門をたたきなさい」という言葉はとても大切な言葉である。それは、今、「求めること」、「探すこと」、「門を叩くこと」をすぐにやめてしまう人がとても多いからだ。

 讃美歌『どんなときでも』を作詞した高橋順子さんは骨肉腫という病気と闘う中で讃美歌の歌詞を書いた。順子さんは「どんなときでも、くるしみにまけず、しあわせをのぞみ、くじけてはならない」と書き残している。それはイエスがどのような時にも私たちと共にいて、愛してくださっているからというのである。

 KAN(歌手)の『愛は勝つ』という歌がある。どんなに大変でも、どんなにくじけそうでも、信じることを止めなければ、必ず、最後に愛は勝つことができるよという歌詞だ。どんな時にも、求め続けられるように、どんな時にも探し続けられるように、どんな時にも門を叩き続けられるように、みんなで愛を分けあって(愛をワカツ)、心の中にしっかりと愛をもって、生きていきましよう。          (三浦啓牧師)


2014年7月20日 「欠きの種」

マルコによる福音書8章14−21節

 イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と言っている。

 ファリサイ派は律法主義に立つグループであった。彼らは律法を守ることによって神から良いものが与えられると考え、「律法を守るから、良いものをください」とまるで神と取り引きをするかのように律法を自分たちの都合のいいように考えていた。その結果、律法の枠から外れる人々を罪人として扱い、多くの差別を生んだ。

 また、神のことを考えるよりは、この世の権力や財産こそが重要であると考え、この世の権力者についていこうとするへロデ派についてもイエスは注意を促している。

 そのイエスの言葉を聞きながら、弟子たちは舟の中にパンが一つしかないことを論じ合っていた。イエスが弟子たちに厳しい言葉をぶつけたのは、弟子たちや今の時代を生きる私たちの弱さを責めるというよりは、私たちそれぞれに与えられた良さを知っているからである。私たちひとりひとりの尊さを知っているからこそ、私たちが心をかたくなにし、鈍くしてしまう、ファリサイ派のパン種とへロデのパン種に負けてしまっている状態を嘆いているのである。

  「自分は欠けている」そう思わされてしまうファリサイ派のパン種、ヘロデ派のパン種は、今日の宣教題にあるように、私たちの心を弱くする「欠きの種」である。この「欠きの種」に気をつけ、まずは、積極的に自分を認めること、自分を愛すこと、自分を信じることからはじめてみましよう。         (三浦啓牧師)


2014年7月13日 「沈(ちん)プレイ」

マタイによる福音書6章5−15節

 今日の聖書箇所には「偽善者のように祈るな」、「異邦人のように祈るな」とある。偽善者のような祈り、異邦人のような祈りとはどのような祈りなのだろうか。ギリシア語ではもともと「偽善者」とは「俳優」や「役者」を意味する言葉であった。つまり、「偽善者のように祈る」とは、いつもの自分ではなく、別の自分を演じることであり、いかにも自分は神様を信じているのだ、そしてお祈りしているのだ、ということを見せつけるためにする祈りのことである。イエスは、「そのように違う自分を演じるのはやめなさい」「ありのままの姿で神様の前に立ちなさい」と言っているのである。

 また、イエスは「異邦人のように祈るな」と教えている。異邦人はどのような祈りをいていたのか?イエスの言葉からこの時代の異邦人が「くどくどと」祈っていたことがわかる。「くどくどとした祈り」とは、単に時間の長さについて言っているのではなく、言葉数さえ多ければ神に聞き届けられると思っているような者の祈りである。しかし、私たちの父である神は、私たちを愛してくださるが故に私たちに必要なものを与えてくださる。だからこそ、わたしたちは必要な物を説明するために長い祈りをする必要はないのである。

 「沈プレイ」の“沈”とは“沈黙”のことであり、“プレイ”とは英語で“祈る”という単語である。忙しい毎日を過ごす私たちだからこそ、心を静めて、神様に、自分に向き合い祈る時を大切にしていきましょう。   (三浦啓牧師)


2014年7月6日 「奇跡の条件」 

マルコによる福音書6章6b−13節

 今日の聖書箇所の手前の箇所で、イエスが生まれ故郷ナザレに帰るという物語がある。ナザレの人々はよく知っているイエスの教えに驚く。その驚きには、「大工」(教養が無くてもできる肉体労働者)「マリアの息子」(父親が誰かもわからない息子)というイエスを見下す表現から、イエスを受け入れまいとするナザレの人々の心の貧しさが表れている。

 イエスはナザレを離れ、12人の弟子を呼び寄せ、2人ずつ6組に分けた。それは、2人で力を合わせ、支え合い、これから伝道活動に励むようにとのイエスの配慮であった。そして、イエスは弟子たちに持って行ってよい物と持って行かなくてよい物について語られた。

  本来、旅に出る時に必要になるだろう食糧やお金などを持って行くことは赦さず、「汚れた霊に対する権能」と「杖一本」を持って行くことを赦された。一本の杖とは、疲れた体を支える杖というだけではなく、心を支える杖、「神様への信仰」ということを意味している。弟子たちは一本の杖を携え、出会う多くの人たちを癒すという奇跡を起こした。

 悪霊を追い出す、病院を癒すという奇跡はどのようにして可能になるのか?それは、奇跡を受ける側も、施す側もたとえ特別な持ち物は無くても、揺るがない神への信頼という「一本の杖」を持つことが求められる。しっかりと一本の杖を携え、教会につながる皆で、「奇跡」と言えるような教会作りを、またそれぞれの人生の歩みをしてみましょう。     (三浦啓牧師)


2014年6月29日 「スローライフ」 

マタイによる福音書4章18−22節

 イエスは、ガリラヤ湖で網の手入れをしているペトロとアンデレという漁師の兄弟に声をかける。この2人は夜通し漁をしていたが、魚が一匹も捕れずにいた。
 その2人にイエスは「もう一度湖に舟を出し漁をしてみなさい」と言われた。ペトロとアンデレはイエスに言われた通り、舟を出し、漁をしてみた。すると、先ほどまで魚が捕れなかったのが嘘のように、大量の魚が網にかかった。

 ペトロとアンデレはこの不思議な出来事を通して、イエスがただ者ではないこと、しかも神に深く関係している人だということを感じ取り、イエス様の前にひれ伏した。
 イエスは足元にひれ伏すペトロとアンデレに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言った。ペトロとアンデレ、また後にイエスが声をかける漁師のヤコブとヨハネも舟を網、父親を残しイエスに従った。

 あっさりとイエスに従っていったように見える光景だが、イエスに従うひとりひとりの心の中にはいろいろな想いがあったことだろう私たちの歩みの中で、迷いや苦しみがあっても、招きに応えることを決断し、どれだけ大切なものでも時にそれを手放して行かなければいけない時がある。

 私たちも「スローライフ」(何かを手放す、捨てる生き方)を実践していきたい。
神様の御言葉に身を委ねる勇気と決断する力を持ち、「人間をとる漁師」として歩んでいきましょう。   (三浦啓牧師)

2014年6月22日 「リンダリンダ」 

マタイによる福音書8章1−4節

 山から下りてきたイエスのもとに重い皮膚病の人が近づいてきて「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。聖書の時代、皮膚病の人はひどい差別を受けていた。

 決して皮膚病の人が汚いわけではない。しかし、周りの人たちから「汚い」「汚い」と言われ続ける中で、この皮膚病の人は自分のことを「汚い人間」と言わなければいけないくらいら追い詰められていた。その皮膚病の人に対し、イエスは手を差し伸べて触れた。

 なぜイエスはその皮膚病の人に近付き、その人に触れたのか。それはその人が汚い人間でも差別をされるような人間でもないことを知っていたからだ。イエスはその皮膚病の人に触れながら「よろしい。清くなれ」と言った。「よろしい」とは、「私は願う」という意味である。

 私たち人間は完璧な存在ではないそれどころか弱い存在である。しかし、イエスが非の打ち所のないような人に向き合うのではなく、いつもどんな時もさまざまな弱さを抱える人たちに向き合って下さっている。

 ブルーハーツの曲「リンダリンダ」のリンダとは美しいという意味である。「あなたは美しい」と肯定してくださるイエスの想いを今の時代にあって代弁してくれているような歌である。

 神に命を与えられ、イエスに存在を認められていることに勇気をもらいつう前を向いて歩んでいきましょう。   (三浦啓牧師)


2014年6月15日 「生えて伸びて咲いてゐる幸福」 

マタイによる福音書13章1−9節

 イエスは聖書の時代の種蒔きを譬えに群衆に話をされた。
 種を蒔く人とは、イエスのことであり、道端、石だらけの所、茨の間そして良い土地とは、私たち人間のことを指し、そして種とは、イエスが語られる御言葉、大切な神の教えということである。私たちがいろいろな種類の土地として表現されているが、そのほとんどが実を結ばない土地になってしまっているのはどうしてなのか?

 創世記の「カインとアベル」の物語で、兄カインは嫉妬から弟アベルにを殺してしまい、その結果、土を耕す者であったカインに対し、神は土を呪われたものとした。神が創造された良い物である土を呪われる物と変えてしまったのは、人間の罪や弱さである。私たちは、「今、自分はどのような土地なのだろう」と立ち止まって、確認する必要がある。

 神と隣人に生かされ、私たちは教会につながる歩みの中で「生えて伸びて咲いている」のである。これほど大きな恵みはないだろう。私たちは時に種を受け入れることができる土地にもなるが、時に硬くなったり、茨が生えたり、石だらけの土地になってしまう弱さも合わせ持っている。

 しかし、イエスが根気強く人々と付き合い、決して関係を切らなかったように、私たちも根気強く、隣人の土地から茨や石を取り除き、また必要ならば耕してあげる、そのような歩みが必要なのではないだろうか。
 隣人と共に「生えて伸びて咲く」そのような歩みを進めましょう。
    (三浦啓牧師)



2014年6月8日 「タテ+ヨコ=エクレシア」 

使徒言行録2章1‐13節

 教会」を表す言葉は、「集められた者の集い」を意味する「エクレシア」というギリシャ語である。最初期のキリスト者が、自分たちの小さな群れを、神に「呼び集められ」生かされる者の集いであると言い表した。
 その教会は、少数者の集いであり、教会に集うひとりひとりの中に弱さや不完全さがあろうと、またどのような苦難があったとしても、私たちは神様に「呼び集められ」生かされる共同体なのだ、ということを自覚しつつ歩んだ。

 そして何よりも大切なことは、人を差別し分断するあらゆる垣根を越えて、誰もが自分の「居場所」と呼べる場所を作ろうと努力し、目標を持つだけではなく、居場所作りを積極的に行ったことだろう。その結果みんなの居場所となる集える場所、「エクレシア」が誕生したのである。そのエクレシアの誕生こそ、神様の生命の息吹きによるペンテコステの出来事なのである。

 今日の宣教題に「タテ」「ヨコ」とある。 「タテ」とは私たち人間と神様の関係である。 「ヨコ」の関係とは私たち人間の関係である。目には見えないけど確かにあるだろう、ここにいるひとりひとりと神様とのタテの関係、そして共に教会に集うヨコの関係、このタテとヨコが重なり合う十字架のような関係をつくりだす歩みを皆で進めましょう。  (三浦啓牧師)



2014年6月1日 「ドラえもん のび太のいつまでも残るもの」 

コリントの信徒への手紙T13章13節

 マンガ・アニメで子どもたちに人気の『ドラえもん』の中で、小学生ののび太はいつもジャイアンやスネ夫にいじめられています。のび太は仕返しをしようとドラえもんの便利な道具を使いますが、いつも仕返しがエスカレートして道具の使い方を間違え、自分にも災難が振りかかるという内容になっています。でも、毎年春に放映される『ドラえもん』の映画の中で、ドラえもん、のび太、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃんは力を合わせて悪い敵と闘います。

 いつも悪い敵に打ち勝つことができるのは、もちろんドラえもんの便利な道具があるからですが、それだけではありません。他にも大切ものがあるのです。それは今日の聖書箇所にある「信仰」「希望」「愛」です。目には見えないけど、誰か(神様や人)を信じる気持ち、どんな時にも、どんな状況でも前を向く勇気、誰かを大切に想う気持ちや誰かに優しくできる心、その「信仰」「希望」「愛」を持っているからドラえもん、のび太、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃんは悪い敵に勝つことができるのです。

 聖書にはこう書いています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」みんなが信仰と希望と愛、この3つの意味を知り、心の中に大切にしていれば、きっともこの大切な3つのことはみんなの心の中に残って、これからもみんなの心の支えとなってくれすはずです。 (三浦啓牧師)

2014年5月25日 「最初の教会」 

使徒言行録1章3節〜5節

 聖霊がエルサレムで一つになって祈っていた人々に激しい力を伴ってくださった。これがエルサレムに誕生した教会だ。聖霊に導かれ、伝道が始まり、次々と救われる人の数が増えていった。

 エルサレムから北へ500キロのところにあるアンティオキアにも伝道の結果教会が誕生した。この教会に重大な問題が起こった。それは救われるためには割礼を受けなければならないと主張するエルサレム側、そして割礼のあるなしは問題ではなく、ユダヤ人以外(異邦人)にも神は恵みを与え、救われると信じて伝道するアンティオキア側。

 この両教会の代表者たちがエルサレムに集まり、会議を開催した。議論を重ねる中で、ペトロ、バルナバ、そしてパウロは次々と意見を述べた。それらを聞いていたエルサレムの教会の代表者ヤコブが「…わたしは判断します。神に立ち帰る異邦人たちを悩ませてはならない」と発言し、付帯事項を加え手紙に書いてアンティオキア教会に持参し、挨拶と朗読することを決議し、その通り実施された。以後、エルサレム教会は、ユダヤ人へ、アンティオキア教会は主として異邦人へ伝道することになった。

 最初の教会会議の模様が彷彿としてくる。長いキリスト教会の歴史上初めての教会会議となった。 エルサレム教会は神殿を中心にし、律法を守ることを大事にし、ユダヤを対象に伝道して行った。

 紀元66−70年のユダヤ独立戦争が起き、エルサレム神殿は破壊され、教会は消失した。教会は伝道を使命とする。教会は民族を越えた世界的な宗教となっていった。教会が自己保存を優先し、自己目的化することが中心になる時に力を失っていくことをここから学びたい。 (井殿園牧師)



2014年5月18日 「小枝を生む枝」 

                              ヨハネ15章1節〜10節

 イエス様は当時のパレスチナ地方の至る所にあったぶどうの木を譬えに話し始めた。
イエス様はご自身を「まことのぶどうの木」と表現された。それに対して「悪しきぶどうの木」もある。聖書の時代にいた偽預言者や自分たちだけが神様に選ばれたという「選民思想」をもっていたイスラエルの人々は、イエス様というぶどうの木にしっかりとつながる枝とはなり得ていなかった。

 では今の時代を生きる私たちはどうだろう?苦難や壁にぶち当たるとぶどうの木であるイエス様から離れ落ちてしまうような枝になってはいないか?神様は私たちというぶどうの木の枝が成長するために時に剪定をするように私たちに苦難や乗り越えなければならない壁などを与える。

 教会につながり、イエス様につながる枝である私たちがより豊かな実を結ぶためには、神様の愛だけではなく私たち自身がしっかりとイエス様につながり続けようとすること、農夫である神様のことばに耳を傾け、時に私たちにとって苦難や試練と思えるような神様の剪定にも耐える揺るがぬ信仰が求められる。ぶどうの木の枝がこの桐生の地から少しずつ広がっていくような歩みを皆で進めましょう。(三浦啓)

2014年5月11日「アイ」 

                               創世記2章15−25節

 今日の聖書箇所で、神様は人間からあばら骨を抜き取り、もう一人の人間(女)を造られた。それは人間の周りに動物はたくさんいたが、「人間に合う助ける者」がいなかったからである。同じく神様に造られた存在として男も女も互いに助け合う存在であり、どちらかが偉い存在、上に立つ存在なのではない。

 今日は母の日である。母の日はアメリカで南北戦争中に敵味方問わずに負傷した兵士を看病したジャービスという女性の娘のアンナが亡き母ジャービスの生前の人のために生きたその素晴らしい歩みを覚えて母のための記念会を教会で行ったことによって始まったとされている。母の日にジャービスのように隣人を愛する生き方に学びたいと思う。

 「誰かのために」というアイ(愛)と、周りにいる家族や仲間との「支えアイ(合い)」「助けアイ(合い)」「励ましアイ(合い)」「祈りアイ(合い)」を大切にしましょう。

 それに加え、日頃教会のためにさまざまな場所で賜物を生かして動いてくださっている教会のお母さんたち(婦人会の皆さん)に感謝の気持を持ち、「ありがとう」という気持ちを表しましょう。 (三浦啓)

2014年5月4日 「イエスは良い羊飼い」

                          ヨハネによる福音書10章7−18節

 聖書の時代、羊飼いは飼っている羊すべてに名前を付け、羊小屋から連れ出す時には名前を呼び、 連れ出した。時に羊飼いは強盗やお狼から羊を守るために命をかけて羊を守ること もあったらしい。また羊も自分の飼い主の声を聞き分け、先頭を歩く羊飼いの後に忠実に 従った。そのように飼っている羊を何よりも大切にする良い羊飼いを譬えに、イエス様は ご自身が良い羊飼いであると話された。

 それは、イエス様の声に聞き従う人たちのために イエス様は命をかけて十字架にあげられることを言わんとしている。しかし、良い羊飼いが いる一方で、盗人や強盗のように羊のことよりも自分中心に、欲や財産のみに心を向けて 生きる人たちがいることも指摘している。良い羊飼いであるイエス様は、病気、民族、性別、 障がいなどで当時“罪人”として差別を受けていた人々を自分の囲いの中に積極的に招き入れた。

 私たち桐生東部教会も“開かれた教会”として教会形成するときに囲いの外へ目を向け、 囲いの中に入ってきてもらえるような教会をつくっていかなければならない。また、囲いの 外にだけ目を向けるのではなく、「あんなステキな囲いなら入ってみたい」そう思われる ような囲い(教会)を形成する歩みを皆で進めましょう。 (三浦啓)

2014年4月27日 「信じる者になる」

                         ヨハネによる福音書20章19−29節

 マグダラのマリアからイエス様が復活されたことを聞いた弟子たちは、イエス様が復活 したことを喜ぶよりも、ユダヤ人に襲われるのではないかという恐怖でいっぱいであった。 家の戸を堅く閉ざし、恐怖に支配されている弟子たちの前に復活されたイエス様が現れ、 「平和があるように」と言われた。

 この言葉は「もう大丈夫!あなたがたは既に平和の中 にいる」というイエス様の宣言であり、弟子たちの心を勇気づけるものであった。 そして イエス様は弟子たちに息を吹きかけ、人間がイエス様の十字架によって罪の赦しを得た ことを伝え広めるようにと言われた。 更に、イエス様はイエス様の復活を信じることが できないでいるトマスの前にも 現れた。そして、ご自身の十字架で得た傷跡をトマスに見せ、 トマスはイエス様の傷跡ではなく、愛に触れ、イエス様を信じた。

 聖書には、「ディディモ と呼ばれるトマス」とある。 この「ディディモ」とは、「双子」という意味である。 この双子とは、「イエス様のことを信じたいトマス」と「イエス様のことを信じ切れない トマス」という両方の顔を持つトマスのことを“双子”と表現しているという見方ができる。 ディディモのトマスのような弱さは誰もが持っている。

 「信じる者」になるために、まずは 心を開いて、神さまに心を向け、イエス様の言葉に耳を傾け、教会につながる歩みを皆で 進めましょう。 (三浦啓)

2014年4月20日〔イースター礼拝〕 「復活による始まり」

                ヨハネによる福音書20章11−18節

 イエス様の亡骸が消えたことにショックを受け、マグダラのマリアは、イエス様の墓の前 で悲しみ泣いています。イエス様を死の領域に求め、見いだせないとうろたえ泣いている マリアの前に天使が現れ、マリアの姿勢を非難します。マリアも弟子たちもイエス様の生前、 イエス様の傍で大切な教え(イエス様の使命とは、イエス様は何者なのか、十字架の意味 とは)について聞いていました。それら大切なことに目を向けず、ただ悲しむのは間違いだ と天使は指摘しているのです。

 そして、復活されたイエス様もマリアの前に現れ、「闇の 世界、死の世界にすがりつくのはよしなさい」と告げました。イエス様に再び会うことが できたマリアは、イエス様の十字架の死が終わりではなく、復活という新しい始まりである ことを知り、弟子たちにイエス様が復活されたという嬉しい知らせを伝えます。

  イエス様 に再会したマリアが心を新たに動き始めたように、私たちも罪と弱さを抱えながらも動き 出さなければなりません。大丈夫です。イエス様はどのような時にも私たちの傍にいて、 私たちの罪と弱さを共に担ってくださいます。(三浦啓)

2014年4月13日 「人の弱さとイエスの強さ」

                         マルコによる福音書11章1−11節

 聖書の時代、平和を表す動物とされていたろばにまたがり、イエスはエルサレムに入城した。 その時、「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って 来て道に敷いた」とある。人々は自分の服を道に敷き、葉のついた枝を道に敷き、ろばに乗り エルサレムに入城するイエスを王として迎え入れた。

 エルサレムの人々は、イエスが入城する際、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。 我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と声をあげている。 それは、イエスのエルサレム入城を喜ぶ歓喜の叫びではなく、イエスにエルサレムの王になってもらい、 長年の悲願であり、旧約聖書に預言されている「ダビデの国」の復興を今こそなし遂げようという叫びであった。

  しかし、イエスのエルサレム入城には別の意図があった。エルサレムに到着したイエスは、 神殿の境内で売り買いする者、神殿という神聖な場を軽んじる者を通して、この世の罪をまざまざと見せつけられた。 それと同時に、この世の罪を贖う、ご自身の十字架への歩みが今必要なことを悟られたのだった。

 聖書の時代の人々の弱さだけではなく、今の時代を生きる私たちの弱さがイエスを十字架へと追いやっているのである。 人の弱さがある一方、イエスは強い意志を持ってエルサレムに入城した。イエスは自分が受けるであろう受難をすべて 見通した上で、逃げるでもうろたえるでもなく、堂々とエルサレムに入城した。

 このレントの時、 イエスが十字架へと向かわれた想いの強さの背景に、私たち弱い人間への大きな愛があることをもう1度 確認しなければならない。自分の持つ弱さを認め、
そこに注がれるイエスの愛を感じつつ、受難週を過ごしていきましょう。 (三浦 啓)

2014年4月6日「家族になる」 

                      コリントの信徒への手紙T12章12−26節

 コリントの教会内で、人間関係によるもめごとが絶えないと知ったパウロは、コリントの信徒へ向けて手紙を書き送り、「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っている」ことを譬えに、他者に排他的になるのではなく、共同体が一つになることの重要性を訴えた。

他者との価値観や考え方の違い、また他者の弱さを見つけてそれを否定するのではなく、私たちそれぞれに持つ弱さを私たちに与えられている賜物を持ち寄って支え合い、補い合うことができれば、私たちは一つの体として活き活きと動けるようになるのではないか。他者に自分の賜物も弱さも隠すことなく見せることができる体こそ良い共同体なのではないか。

 教会や保育園に繋がる皆が出会い、交わり、共に歩む中で神様を大黒柱に持つ家族になっていく。皆が家族として支えてくれる、祈ってくれる、なにより神様が傍にいてくださる。なんて心強くてなんて大きな恵みでしょう。

新しい1年、皆で神様を中心に置いた家族になり、教会創立100周年(2015年1月17日)をより強い家族としての繋がりをもって迎えられるように、歩みを進めていきましょう。 (三浦 啓)