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桐生東部教会は日本キリスト教団に所属しているプロテスタントの教会です。

〒376-0035 群馬県桐生市仲町2-11-14
牧師 三浦 啓

Tel.0277-44-4879Fax.0277-32-3139E-Mail.tobu1915@ktv.ne.jp

 

【年間聖句】 マタイによる福音書5章9節
「平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。」


【 3月の聖句】マルコによる福音書14章38節
 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」

新型コロナウイルス対策について
世界各地、日本全国で感染が広がっている新型コロナウイルスから皆さまの健康が守られます
ようにお祈りしています。桐生東部教会では、新型コロナウイルス感染のリスクを軽減させる
ため、礼拝内容の短縮、集会・行事等の休会など必要な対策を協議し、実践していきたいと思
います。3月22日までは礼拝や集会などは休会とさせていただきます。         
ご理解・ご協力いただければと思います。尚、毎週日曜日の礼拝は10時30分より行います
体調をお確かめの上、ぜひ礼拝に起こしください。皆で歓迎いたします。         


最新情報・おしらせ・イベント情報

桐生東部教会は、2020年1月17日に創立105周年を迎えました。

   【次週 棕梠の主日主日総員礼拝 予告】
    4月5日(日)10:30 宣教:三浦啓牧師
    聖 書:マルコによる福音書15章21−32節
    宣 教:「請求ではなく領収を」
    讃美歌:*新型コロナウイルス感染予防のため讃美歌は讃美しません


    
 礼拝堂の後ろのスペースに「こひつじるーむ」(母子室)ができました!
    小さいお子様連れの方も是非教会にいらしてください!

 【4月5日(日)棕梠の主日総員礼拝 宣教】 

「請求ではなく領収を」
 マルコによる福音書15章21−32節

救いとは何か? 救われるとはどういうことか? 今日の聖書箇所は、私たちの信仰にとって最も重要な問題を考えさせられるところです。

 皆さんが、救いとは何かと問われたら、例えば、聖書を読んだことも、教会に行ったこともない人から「キリスト教の救いとはどういうものですか?」と聞かれたら、どのようにお答えになるでしょうか。この答えをはっきりと答えられるぐらい、「救いとはこれだ」、と確信していることが大切ではないかと思います。

いや、そうは言っても、私たちは信仰に迷ったり、後戻りしたりします。分かっているようで、人生の経験や実感が伴わず、まだまだ、ということもあります。信仰は付け焼刃では、力が出ません。救いを確信し、自分の心の中で深めて、モノにしていくためには、それだけの信仰生活の積み重ねが必要であります。いわゆる“修業”のようなものです。そのように、私たちは、すぐに分からなくても、今はっきりと答えられなくても、救いの確信を求めて一歩一歩、信仰の道を進んでいる。その思いだけは、自分の胸の中にしっかりと持たなければと思います。

 今日の聖書箇所に次のようなことがありました。

「‥‥十字架から降りて自分を救ってみろ」。

また、イエス様を十字架に架けた祭司長や律法学者たちも、

「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。

 どちらにも“救う”という言葉が出て来ました。そして、どちらにも「十字架から降りる」という言葉が出て来ました。ここに登場している人々は、イエス様が「十字架から降りる」ことがイエス様にとっての救いだと考えているようです。つまり、本人にとって、苦しみや災いから逃れることが、苦しみや災いの現実が取り除かれ、解決すること、苦しみや災いが“無い”状態が救いだと考えているのです。

 祭司長や律法学者をはじめとする当時のユダヤ人は、神様を信じて正しく生きる人には、現実的な神様の祝福が与えられると信じていました。神様の祝福とは、日本流に言えば、家内安全、商売繁盛、無病息災といったことです。そして、そういう神様の祝福の現実をいただいて、幸せに生きられることが“救い”だと信じていました。病気にかかったり、商売に失敗して財産を失ったり、家庭内にトラブルや危険があったら、そこには救いがない、神様の祝福がない、ということなのです。そして、救いがない人、神様の祝福がない人は罪人なのだ、罪人だから神様が祝福をくださらないのだと考えていました。逆に言えば、病気が治ったり、失敗を取り戻したり、苦しみが解決したりすれば、“罪が消え、救われた”、“祝福された”ということになるのでしょう。

 けれども、果たしてそれは、本当に“救い”なのでしょうか。確かに、病気にかからず健康だったり、仕事がうまくいって儲かったり、家庭内にトラブルがなく仲良く過ごせたり、そんなふうに人生が思うようにうまく行くに越したことはありません。誰しも、そういう人生を願うことでしょう。

 けれども、現実には、なかなか人生はそううまくは行きません。旧約聖書に出て来るヨブではありませんが、倒産やリストラで職を失ったり、仕事に失敗して財産をなくしたり、家庭内に亀裂が生じたり、愛する家族を失ったり、思いがけない病気に苦しむことになったりするのです。そういう時に、私たちは救いを求めるのです。また成功するように、家庭が平和になるように、病気が治るようにと願って、神様に救いを求めるのです。それは、誰もが願い求めた経験があるのではないでしょうか。

 その願いが叶えられたら、私たちは心から“救われた”と感じるのです。けれども、やはりそう簡単には願い求めたようにはならない。そして人生の現実がそうであるならば、そこには“救い”はない、ということなのでしょうか。

 そうではないのです。私たちが救いだと思っているものは、私たちの願望、私たちが願い求める救いではあっても、神様が与える救い、イエス様が指し示す救いではないのです。つまり、私たちの人生には、私たちが願い求めているような救いはないかも知れませんが、私たちには見えていない別の救いがあるのです。

 言葉を変えて言えば、人生の価値観は一つではない、人生を生きる道は一つではない、別の価値観がある、違う生き方があるということです。私たちは、“人生、幸せなのが一番!”という幸せ至上主義の価値観にならされていて、そうでなければダメな人生、そういう幸せを失ったら生きる価値のない人生であるかのように考えているところがあります。しかし、必ずしもそうではないのです。十字架に架けられるような人生、十字架から降りられないような人生では、生きている意味がないと悲観するかも知れませんが、そうではないのです。

少なくともイエス様はそうは考えておられませんでした。もちろん、イエス様にも、この十字架の苦しみを取り除いてくださいと、神様に願い求める気持ちはありました。けれども、そういう気持ちを越えて、ゲッセマネの園で祈られたように、「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という思いが、イエス様の内には強くありました。

 神様の御心とは、イエス様を通して、まさに祭司長や律法学者たちの言葉にあったように、イエス様以外の「他人を救う」ことでした。マルコ福音書の10章45節に次のようなイエス様の言葉があります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 イエス様は神様の御心を、言い換えればご自分の使命を、そのように受け止めておられたのです。人の心は罪に支配され、罪の人質になっている。その人質状態から多くの人を解放するために、自分の命を身代金として献げる。それが、十字架へと歩みを進めるイエス様の心でした。

 罪に支配され、その人質となっている人の姿は祭司長や律法学者たちにも見出すことができます。彼らの言葉に、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とありました。それを聞いて、私はふと思うのです。「では、本当にイエス様が十字架から降りたら、彼らは信じたのだろうか? イエス様のことを救い主だと、イエス様による救いを信じるのだろうか? 決して彼らは信じなかっただろうなあ」と思うのです。十字架から降りて来たイエス様を前にして、恐れて逃げ出すか、それとも別の難癖をつけるのか、いずれにしても信じないだろうと思うのです。それぐらい、人間は身勝手で、自己中心に生きている、ということだと思うのです。

救いということに対しても、そうです。自分に都合の良い救いを思い描いている。そうでない救いは受け入れない。そうでない人生は否定する。そういう気持ちになってもおかしくはありませんが、それは人生に対する、命に対する自己本位な態度ではないでしょうか。

そういう自己中心の罪を、私たちもまた心の中に抱えているのではないでしょうか。そういう心の奥深くにある罪の身代わりとなって私たちを赦すために、イエス様は十字架に架かられたのです。別の言い方をすれば、私たちがそういう自分の生き方のズレに気がついて、人生の方向転換をできるようになるために、イエス様は十字架にお架かりなったと言って良いでしょう。

 いずれにせよイエス様は、ご自分の十字架の人生を、神様の御心として“これで良し”と肯定し、受け入れておられました。自分の人生に注がれている神様の愛を信じて疑いませんでした。

 このイエス様の信仰から教えられることは、自分の人生を“これで良し”と肯定し、受け入れるなら、そこには“救い”がある、ということです。健康で、仕事も順調、財産もあって、家庭も平穏だから救いがある。そうでないから救いがない、のではないのです。たとえ、病を患い、仕事や財産を失い、家庭にトラブルを抱えていても、自分が願うように人生がいかなくても、“これが私の人生。神様が私をここに置かれたのだ。ここにもちゃんと神様の愛があり、神様が与えてくださる大切な意味がある。だから、これで良し”と、自分の人生を肯定し、受け入れられることが、“救い”なのです。イエス様の指し示す救い、信仰による救いなのです。

 カトリックの司祭で、井上洋治先生という方が、『人はなぜ生きるか』という著書の中で、こんな一言を書いておられます。 

私たちは、健康にしろ、財産にしろ、友情にしろ、家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものに支えられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なことではないかと思ったのです。

 そういう心を養い育てていく。それが信仰の道であり、神様を信じて自分の人生を“これで良し”と肯定し、受け入れられるところに、救いがあるのです。

 だから、私たちは、自分の願うようには行かない人生を、不都合ではありますが、恐れる必要はないということです。色あせた、価値のない人生と否定することはない。それは、自分の願いとは違って負わされた人生、まさにキレネ人シモンのように、無理に担がせられた十字架かも知れませんが、私たちは、そういう人生にも救いがあることを知っているのです。そういう人生でなければ、味わい得なかったものがある。気づくことのできなかった人生の深さや優しさがある。その値打ちを、神様を信じて生きる中で、きっと発見することができるのです。キレネ人シモンも、そういう救いを見つけたから、自分の人生を“これで良し”と肯定し、受け入れる信仰の人になったからこそ、今日の聖書の箇所に、その名が刻まれているのに違いありません。

 「ああしてください」、「こうしてください」と願い求める自分中心の“請求書のような信仰”から、「神様がくださったのだから、これで良し」、「確かに受け取りました」と受け入れる“領収書の信仰”への転換、生き方の方向転換、イエス様はその道に、私たちを招いておられることを覚えて受難週を歩んでいきましょう。
                     (桐生東部教会 牧師 三浦 啓


主な集会へのご案内

 主日礼拝  毎週日曜日 10:30〜11:30
  ※第4日曜日は「求道者礼拝」として、初めての方に対応するよう配慮しております。
  教会学校  毎週日曜日 10:30〜11:30
  ※幼児から中学生が対象。(大人と一緒に礼拝を守り、途中退出して分級を行います)
  祈祷会・聖書輪読会 毎週水曜日  19:30〜20:30
 昼の祈祷会 月1回(第二火曜日) 13:30〜15:00
 ナイトプログラム 毎月第4木曜日 19:00〜21:00
 
  ひこばえ  毎週木曜日 13:00〜15:00  

 主日礼拝は“2F”礼拝堂、その他の集会は“3F”集会室で行われますが、
   「エレベータ及び30台以上の駐車場が完備」しておりますので、
          お気軽にお出かけください。

礼拝へのご案内

◎ 聖書(新共同訳)、讃美歌(讃美歌21)は、教会備え付けのものをお使い頂けます。
◎ 服装の決まりはありません。
◎ 礼拝堂は2階にございます。
◎ 礼拝堂入口に受付があり係がおりますので、ご不明な点は何でもお聞かせください。
◎ 受付にて礼拝プログラムが書かれた印刷物をお受け取りください。
◎ 礼拝中に感謝献金の時があります。ご無理のない範囲でお献げ下さい。  
◎ 礼拝後ロビーに、お茶とコーヒーが用意さております。(コーヒー1杯50円)。