双葉寿司の歴史

創業 昭和12年

 
 初代 田沼虎次は、本町5丁目の魚萬商店に長年奉

 公
し番頭をしていましたがその後独立し、桐生市巴

 町に鮮
魚店を経営していました。そしてこの年、桐生  

 市末広町
1丁目、うなぎの丸啓さんの並びにて、市で
 
 3軒目の寿
司屋に転業する。屋号を決めるにあたり

 この年大関に
なった双葉山の大ファンの虎次、ヨシ夫

 婦はこのあと
横綱になるべく双葉山にあやかって屋号

 を双葉寿司と
した。また、東京からすしの名人、新沢き

 よしさんを呼び織物の全盛時代もあり、連日夜明けま

 で繁盛する。




   



 
  昭和13年

 
 双葉山が35代横綱になる。少年の頃から右目を失
 明
していたことを隠して相撲をとっていた




                                                                                                            

       
     


  昭和16年





 第2次世界大戦がはじまり、世の中は自由にお米が

 扱
えなくなり、配給制となったこの年、寿司屋は廃

 業に追
い込まれる。さらに、店の場所が桐生市郵便

 本局前だ
ったため 焼夷弾(火炎や高熱によって人や

 建造物など
を殺傷破壊 する爆弾)が落とされる可能

 性が高く、少し
はなれた大沢 本屋さんの裏となりに
 
 店を疎開させた







  昭和24年




 このころから、お米が自由に扱えるようになり寿司

 屋
を再開する。2代目、田沼義夫は、明治大学政

 経学
部を卒業後桐生の佐々木整染に数年間勤め

 この年
桐生市堤町にある現在はマキコレワインで

 有名な株
式会社かない屋の長 女君代 (桐生女子

 高校卒業後
、本校が横浜の桐生ミノワ洋裁服装学

 院卒で、2代目の
おかみさん)と結婚し双葉寿司に

 入るこの時代のマ
グロは、トロの部分は食べずに捨

 て赤身だけを食べて
いた


 

  昭和27年




 

 10月28日 法人設立 有限会社 双葉寿司。


 双葉山は、日本相撲協会の理事長に就任する。この

 年
桐生巡業の際、双葉山一行が当店を訪れカウンタ

 ーで
すしを食べる。このとき、2代目義夫ともう1

 人の板前2
人が かりで握ったが、双葉山の食べる

 スピードに間
に合わなかった。その理由は、2個出

 したすしを2個い
っぺんに食べていたから。この時

 のお礼にと「剛健」の
額と手紙を 添えて送って下さ

 った物が今も店内に飾っ
てある。この過分なお礼に

 森秀のお召しを丹前用2反
ずつ送った。全国に双葉

 という屋号はたくさんあるが
双葉山に公認 されたの

 は当店だけであるこの頃市内の寿司店は約300軒

 に増えている




   

   

      

       中央が横綱双葉山






      
      

       

        双葉山 直筆の額


 

  昭和28年




 

 テレビ放送開始にあわせて、相撲とプロレスが見

 たく
て17万5000 円 (現在で640万円位)でテ

 レビを購入
した当時の公務員の初任給は、高卒

 で5400円。重
さは、50キロもあり裏側には、群

 馬県で3番目のプレ
ートがあった。 それからが大

 変お客様もテレビが見
たくて連日予約でいっぱい。

 カウンターの上に座って
見たり、よく見えるように

 電気を消して見るから スリが
でたり、ケンカをした

 り大騒ぎ





  昭和33年

 

 初代の妻田沼ヨシ57歳にて死去。


 この人を語る上で、いくつかのエピソードがある。

 お勘
定 がまだ未払いの旦那が第一勧銀の十字

 路の反対
側に歩いていると、大きな声で「おい、○

 ○、まだ、勘
定払ってな いぞー」と近所中聞こえる

 ように言うもの
ですから、言われた方は次の日

 「ばあさん、かんべ
んしてくれよ」と必ず持ってき

 ました。当時、飲食店の
3大女傑は、北京料理 の

 富士、桐葉軒、そして双葉
の女将さんといわれて

 いた。
また、雨の日にある客が、「どんなボロ傘で

 もいいか
ら貸してくれ」と傘を貸した。その後、なか

 なか持って
こな いので「この前の傘、どうした?」

 と聞くと「あんな
ボロ傘、どっかに捨てちゃった」に

 激怒し、「たのむか
ら貸 してくれと言うから、貸して

 やったんだい。そのボ
ロ傘のおかげでお前が濡れ

 ずに帰れたんじゃないか
さがして、必ず持ってこい」

 亡くなった次の日、桐生タイ
ムスに「双葉寿司の名

 物女将亡くなる」と掲載された





  
   昭和48年




 

  初代田沼虎次71歳にて死去。


 とにかく、働き者で刺身を切らせると桐生一といわ

 れ
ていた。ビールが大好きで、朝起きて一本に始ま

 り1
日に大瓶1ダース飲む。部屋には、亡くなる直

 前まで
ビールが4ケース積 み上げられていた。また

 仕事
が終わったあとの仲間とのコ イコイが趣味で

 亡くな
ったお通夜の日もコイコイのご開帳 だった






  平成3年





 3代目田沼 寿(ひさし)は、日本大学を卒業後、全国


すし連盟会長の大前錦次郎氏が経営する、明治40年

創業厳しい修行で有名な東京青山の青山大寿司総本

店で5年間修行する。この店で修行できる条件は、寿

司屋の息子であり、県の寿司組合の推薦が必要で、全

国から20人ほど修行に来ていました。その他三重県津

市の東京大寿司、神奈川県寒川市の寒川大寿司、板

橋区ときわ台の青山大寿司、東京都池袋の西武百貨

店地下飲食街などでも修行を積む。この年東京歯科大

学短期大学を卒業し、同じ青山にある青山デンタルク

ニックで、歯科衛生士をしていた東京都大田区出身

の妻
と長男 と双葉寿司に入る




  平成4年

 本町5丁目の現在地に店を新築






  平成5年


 2代目田沼義夫63歳にて死去

選挙にマージャン、野球にお酒を愛し、ライオンズ
クラブ駿台クラブ、寿司組合などで活躍し、そして
たくさんの友人。双葉のよっちゃんと親しまれ、桐
生市野球連盟の理事長を17年つとめ、体育功労
賞をいただいた

  平成9年

出前、テイクアウト、出張寿司は、売り上げの半分
を占めていたが、味が落ちてしまうためやめて、店
内の提供だけに専念する


  平成12年

当時まだ少ない店内完全禁煙にする



  令和5年、2023年

 

  おかげさまで創業86周年





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