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天台宗松樹山慈光院・タイトル

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家康公天海大僧正

・本尊  阿弥陀如来

・開山  寛永二年(1625年)

・開基 覚盛法印

 1590年(天正十八年)、徳川家康公が桐生の地を徳川家直轄地としたことが、栄昌寺開山に向けての始まりとなります。
 家康公は領地とした桐生の町を機能的な環境に整備するべく、家臣で代官の大久保長安に町づくりを行うよう命じます。この大久保長安という人物は、徳川家の数ある家臣の中でも家康公の大きな信頼を得た有能な家臣で、桐生の他にも江戸や八王子の町づくりに参画し、さらには主要な金山銀山の管理開発もまかされるなど、まさに八面六臂の活躍をした才人でありました。大久保長安は、手代の大野八右衛門を実践役として桐生の町づくりをすすめます。

 さて、ここで桐生の町づくりについて簡単に言及いたしますが、それには江戸の町を引き合いにイメージするとわかりやすいと思います。江戸城を中心として北に湯島天神、南に増上寺を配したのが江戸の町で、北の神様と南の仏様に町をまもっていただく配置となっております。さらに、江戸城の東北の方角の、鬼門にあたる上野の位置に寛永寺を創建して、江戸の町と江戸幕府に安泰をもたらしてくださるようご祈念をした町づくりになっております。 桐生の町も北に神様の桐生天満宮を、南に仏様の浄運寺を配し、また、江戸城にあたる桐生陣屋を、これは軍事的理由などからと思われますが、南北の直線上ではなくその中央から北西の位置にあたる見晴らしのいい丘陵地に配しております。そして桐生天満宮と浄運寺の南北を結ぶ通りからほぼ直角に桐生陣屋へと向かう通り、いわば当時の桐生の町のメインストリートのほぼ中央に、寛永寺にならって創建されたのが、当山栄昌寺でありまして、維れ時1625年(寛永二年)のことであります。
 当山には残念ながら古文書であるとか、代々伝わる文献であるとかがまったくありませんゆえ、当時をしのぶ書物としての手がかりは残っておりません状況にあります。がしかし、境内には二宇のお堂があります。それは、弁天堂と権現堂です。先に寛永寺にならって創建されたと記しましたが、その証しとなるのがまさにこの二宇のお堂であります。特に徳川家康公をお祀りする、開き扉の両側に三つ葉葵の御紋を有する権現堂があるということこそ、ゆるぎのない証しであると申し上げてよろしいのではないかと存じます。
 寛永寺を創建したのは、天海大僧正です。天海大僧正は、天台宗の高僧で家康公の知遇を受け、江戸幕府創建時に内外の政務に参画したことで広く知られています。当山を創建したのは、その天海大僧正の法弟の覚盛法印であると伝えられています。
 天海大僧正は、永眠された後の家康公を、久能山から日光へと改葬することにご尽力をされた経緯があります。日光への移動の際、その途中にある桐生の地に、さらには深いご縁のある当山に寄らないと考える方が不自然なわけでして、つまりは、天海大僧正は少なくとも一度は、栄昌寺にご来山をされたことがあると考えられております。なお、参考までに当山には、天海大僧正が着用したとされる燕尾帽とお袈裟、また、徳川家康公と天海大僧正が描かれた狩野派の流れをくむ絵画の掛け軸が伝えられております。
 以上のように、徳川家康公という偉人中の偉人、また、天海大僧正という高僧中の高僧、そして、覚盛法印、大久保長安、大野八右衛門という秀逸なる方々のご縁を拝し、桐生の町のご加護と繁栄を期して創建されたのが栄昌寺なのであります。

    栄昌寺第二十七世住職 謹白


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